地中海石喰人魚


その四

 ああ。
 ごぼ。

 こんなんじゃ、まだ最初に見た夢のほうがましだった。乗り物に乗ってお化け屋敷に入るみたいに、ただ気味の悪いお化け人魚を見て怖がっていれば良かったんだもの。
 それに引き換えこっちの夢は変にリアルだから溺れかかるし、他人の不幸に悪酔いするし、おまけに失くした石を探すまで目が覚めないときた。こんな参加型の夢なんて、なんで見てしまったんだろう。
「さ、がんばって」
 頭の中でぐるぐると後悔が渦巻いている私にお構いなく、人魚は明るくはげましてくれる。いや、この場合はげましというより促しか。声かけつつ先に海底に向かって泳いでいるよ。
 仕方なしに後に続くと、私も程なく海底に着いた。そして彼女と向かい合わせになると、ゆっくりとまわりを見渡してみる。

 二人を避けて泳ぐ魚の群れ。日の光が波の動きに合わせてゆらゆらゆらめく。
 人魚が規則的に吐き出す泡。そして彼女の力強くて優雅な尾。
 ああ、私、もう現実世界には帰れないのかもしれない。
 今見ている景色が美しければ美しいほど、私の中に絶望感が広がっていった。

 大体、遺跡の眠る海の中でたったひとつのかじりかけの石を見つけるなんて、誰が出来ると思うんだろう。それに比べたら鳥取砂丘で星の砂見つけるほうが楽な気がする。
 それに、晴れて見つけることが出来たとしても、現実世界に戻っても、苳太はいない。そこにいるのは三十八度五分の熱を出して寝込んでいる私だけだ。
 いっそのこと、人魚になって石を喰べて海の中で暮らすほうが、私には合っているのかもしれないな。
 そこまで考えたときに、ふいに人魚に手首をつかまれ、はっとした。
「石を探すコツを教えてあげる」
「あ、はい」
「心の底からその石を欲しいと願うの。そうすれば、石のほうから拾ってくださいってやって来るわ」
「はあ」
 分かったような分からないような気の抜けた返事をして、私は目線を足元に落とした。
 あたり一面石ころだらけ。こんなので本当に探せると思っているのかな。
 そうっと人魚をうかがい見たら、彼女は真剣な表情でゆっくりうなずいて見せた。
「しっかりね」
 しっかりねって言われたってね。
 小さなため息を人魚に飲み込まれないように慌てて体で隠して、私は目の前の石ころを拾った。白くてごつごつしていてみかん大。とりあえずさっきのに似ていることは似ている。監視のいる前でサボることは出来ないし、やるだけのことはやらなくては。
 こりん。
 かじった途端に広がる泡。そして、
『嘘吐き! あんなにあれほど約束したのにっ』
「ひゃあ!」
 女に人の金切り声に驚いて、思わず私も叫んでしまった。
 あー、びっくりした。ものすごく感情的になっているんだもの。あまりにも迫力がありすぎて、聞いているこちらのほうが怒られているみたい。怒り狂うって、きっとこういう声のことを言うんだ。
  ごぼごぼごぼ。
 私はとりあえず口の中の石をすべて泡に変えてしまうと、自分の中に染み込む前に吐き出してしまった。そして残りをそっと元の位置に戻しておく。
 なぜこの女の人がそんなに怒っているのか、気にはなる。けれどあんな声を出すような状態に付き合って、またどつぼにはまる真似はしたくない。
 一気に泡を吐き出したため体の中の酸素が足りなくなり、私は急いで次の石を手にした。
 こりっ。
『うまくやらなきゃいけない。この仕事で、俺の人生が決まるんだ』
 今度は男の人。この台詞からいくと、出世の野望に燃えて目下のところ奮闘中、ってところかな。でも関係ないので、これも早々に吐き出しちゃおう。
『つまり、私が言いたいのはだね、移民に対する役人の態度があまりにも、その』
 違う。これでもない。
『あんたなんてまだ良い方よ。ガストローンの方なんて、見てごらん。あそこのご主人たら……』
 駄目。次は?
『今度はいつやって来るの? もう私、これ以上待つのは耐えられないわ』

 ああ。
 ごぽ。

 いくら体で隠しても隠しきれないほどの大きなため息泡を、私はひとつ吐き出した。
 今ので何個、石を喰べた? 五つ? そうまだ五つ。それなのに、私はもううんざりしている。
 なんだってこんなに楽しくない石ばかり拾ってしまうんだろう。一番最初に味わった、あの幸福な家庭のような石はここには無いのかな。あ、そうか。私の精神状態が良くないからこんな石ばかり拾ってしまうって、さっき人魚が言っていたっけ。
 ごぼっ。
 もう体で隠そうともせずに、三個目のため息泡を吐き出した。
 大きな大きなため息泡。あまりに大きすぎて、吐き出した後に息が続かなくなってしまう。
 喰べなくてはいけない。
 のろのろとした動作で石を拾う。
 喰べなくては海の中にはいられない。でも、
『少しは俺の気持ちも分かってくれよ。いったい何が不満なんだ。ただふてくされているだけじゃ、俺だってどうしたらいいか対処のしようが無いだろう?』
 いつまで続くんだろう。
 私はあと何個、石を喰べなくてはいけないんだろう。一体、あと何人の心を読まなければならないんだろう。
 気を付けてはいたけれど、それでも少しずつ石の感情にあてられて、自分が悪酔いしていくのを感じていた。

 苳太。

 私は泣きたい気持ちを抑えて、心の中で呼びかける。
 何が不満って、苳太のせいで私がここでこんな目に遭っている、それが不満なんじゃないの!
 八つ当たりなのは十分分かっていた。けど、どうせ苳太はここにはいない。そして万が一目が覚めても、そこにもいない。ならば遠慮することなく当り散らしてもいいでしょう?
『あなたは私のことを知ろうともしない』
『あとどのくらい待たなければならないんだ?』
『何しているの? もうこれ以上あの子を傷つけるのはやめてっ』
 やみくもに石を詰め込んだせいか、だんだんと酸素過多になってきた。げっぷがしたい。言葉の泡が喉元でつかえて、重く胸を圧迫する。あともうちょっとで泡は口から飛び出るはずなのに、最後のところで引っかかって出てこない。
 このまま海の中で、泡に胸つかえて窒息死しちゃうのかな。
 そう思いながらも、私の手は機械的に石を口まで運んでいた。
 なんだろう。いつの間にかこの作業が止められなくなっている。これが石を失くしてしまった罰なんだろうか? だとしたら私、石が見つかるまですっとこのまま喰べ続けていなくちゃいけないのかな?
 私の中に詰め込まれる、沢山の石。沢山の空気。沢山の感情。けれど楽しい気持ちはいつまで経ってもやってこない。石をかじるたびに聞こえる感情の声をひたすら聞き流して、私は失った石、メートリッケのことだけ考えようとした。

 自分の恋人に突然去られてしまったメートリッケ。
 辛いよね。去られただけではなく、別の人と結婚までされちゃったんだもの。もう二度と、二人の関係が戻ることは無いんだ。
 さすがに結婚まで一足飛びに行かないにしても、私と苳太の関係に似ている。突然壊れてしまったとか、直前にケンカしていたとか。私が真っ先に彼女の石を拾ってしまったのも、きっと私の落ち込みが彼女の感情と引き合ってしまったからなんだ。
 もう二度と、アレクシオスとの仲が修復できないメートリッケ。髪の毛を振り乱して泣き叫んでいた。彼がいない寂しさに気が狂いそうになっていた。
「もう一度だけでよいから、あの人に会わせて、か……」
 ふと、拾いかけた石をまた捨てて、私はそのままの姿勢でつぶやいた。
 彼女がどんなに望んでも、たとえもう一度会えたとしても、彼に結婚の意志がある限り二人の仲は戻らない。
 じゃあ、苳太は?
 合コンには行ってしまうかも知れないけれど、とりあえず昨日の今日で結婚決めるなんてことはないでしょう? 会うことは、会うことは出来るよね?
「でも、あんな別れ方しちゃったよ?」
 自分に言い聞かせるように、あえて言葉に出してみた。
 あんなふうに怒る苳太は初めてだった。あんな目で見られるのも初めてだった。こんな状態でなんてやっぱりもう会えないよ。もう、会えない。

 でも、会いたい。

 ふいに、心の中でひとつの言葉が泡のようにぽっかりと浮かび上がった。
 苳太に、会いたい。
 今まで考えないようにしていた気持ちなのに、言葉という形をとった途端に見る間にそれは大きくなって、私の胸を圧迫する。
 ……私は、何でこの言葉を自分の心の中に封じ込めていたのかな。何で会いたいと思う前に、もう会えないと思うようになったんだろう。
 ひとつの気持ちに気が付くと、そのために隠していた自分の気持ちが次々と見えてきた。
 苳太のせいでこんな夢見ているって、今さっき八つ当たりした。苳太だって私に我侭言ったことあるって、言い訳してた。でも、そんなの全部どうでもいいことなんだ。自分の思い通りにならないからって、子供のように私が駄々をこねていただけのこと。
 苳太に会いたい。会って謝りたいの。あんな別れ方なんてしたくない。あんな形でさよならなんて、したくない。だから、苳太、
「苳太に、会わせて」
 ごぽっ。
 胸のつかえがすっと取れて、丸くて大きな泡がひとつだけ、口から漏れた。
『はい』
 その途端、苳太が目の前に現れる。
「あ……」
 苳太。
 と呼びかけようとしたのに、なぜか声が出なかった。だって、こんなにもあっけなく、普通の顔で何事も無いように立っている苳太を見たら、誰だって拍子抜けする。
 けれど、すぐに気付いてしまった。
 これは、幻だ。
『はい、石』
「え?」
 幻だと分かっていても、今一番会いたかった人の姿。そのままじっと見つめていたら、その幻が私に石を差し出した。
 みかんくらいの大きさの、白くてごつごつした石。端のところが何かにかじられた様に欠けている。
「これ、もしかして」
 受け取って重さを確かめて思わず小さくつぶやくと、苳太はにっこりと微笑んだ。
 牧羊犬の微笑み。たとえ幻でも、そんな彼の表情を見ると恋しさに胸が痛くなる。
「苳太……」
 たまらずゆらりと体を苳太に向かって傾けると、苳太はもう一度にっこりと笑ってから一言言った。
『じゃ、そういうことで』
 途端、彼の姿が掻き消える。
 って、え?
「え? ちょ、ちょっと、何で? あとに残された私は!? この後どうすればいいのよっ!」
 はっと我に返って叫んだけれど、すでに時は遅すぎた。苳太なんて、これっぽちも見つからない。あとに残るのは、私と喰べかけの石のみ。
「あーっ、もういいっ!」
 会いたいって、心から思ったんだもん。目が覚めたら苳太に会って、このひどい仕打ちを問い詰めてやる。だから深く考えるのは止め!
 それよりも、この石。これの真偽で私が現実世界に帰ることが出来るのか、決まるんだからっ。
 ちょっとばかり自棄くそな気持ちを抱えて、石をかじってみた。
 体の中に染み込む空気。
 この雰囲気、おぼえている。ただ傍観するだけのこちらにも伝わってくる、いたわりの気持ち。
『……ッケ、……いで、メートリッケ。もう、泣かないで。それ以上泣かないで、メートリッケ』

 気が付くと、さっきと同じように二つの影が揺らめいていた。女神像にすがりつくメートリッケ。だけど泣き疲れたのか、今の姿は女神の足元でうたた寝をする姿に変わっている。そして繰り返す、あの子守唄のような優しい言葉。
 これは、女神の声……?
『泣かないで。それ以上泣かないで、メートリッケ』
 その時、メートリッケが突然目覚め、視線をゆっくりと女神像へとさまよわせた。
『女神様』
 力が弱くかすれた声。けれども、なんだろう。先ほどには感じられなかった落ち着きのようなものが、彼女の瞳に生まれていた。
『あの人は、もう私を見つめることもないかもしれない。けれども私があの人を愛していたことは忘れないでほしいの。どうぞ女神様、それだけでも彼に伝えてください』
 そう言って祈る彼女の目には涙がたまり、まだまだ立ち直るには時間がかかることは見て取れる。それでも、私は安堵の息を思わず漏らした。多分、彼女は乗り越えられる。その根拠を上手く説明することはできないけれど、でも確信した。彼女は乗り越えるだけの強さを持っているはずだ。
「大丈夫。彼女はもう心配ないわよ」
 人魚が私の腕をそっとつかんでそう言った。
「うん」
 メートリッケと女神像から目を離し、隣に並ぶ人魚に向かってうなずいた。
 多分、人魚はこの後のメートリッケの人生にかかわる石を喰べたことがあるんだろう。私と違い、彼女の話し方は事実をそのまま伝えている確かさが感じられた。でも私はあえてその後を聞こうとはしない。次の石で始まる物語は、私の体にはもう収まりきらない。
 人魚はそんな私の表情を見つめると、にっこりと微笑んだ。
「さ、て、と。石もこれで見つかったし、次は私の番ね。その石、もらえるかしら」
 そう言うと、まるで準備運動でもするかのように、人魚は軽く伸びをする。
「人魚の番?」
 とりあえず石を渡しつつも、意味が分からず私は聞き返した。
「人魚のお仕事は石を喰べるだけではないのよ」
 そう言った直後、人魚は渡された石を素早い動作で喰べだした。石を噛み砕くたびに彼女の中で膨張してゆく空気が、口の端からぽこぽこと漏れてゆく。
「一番最初の広間に戻りましょう」
 あっという間に石を喰べ終えてしまった人魚は満足そうに尾びれを大きく動かすと、ゆっくりと泳ぎ始めた。