地中海石喰人魚
その五
石喰人魚のもうひとつのお仕事って、なんだろう。
彼女の後を追いながら、私は真剣に考えていた。
そういえば人魚に仕事があるなんてことにも、気が付いていなかった。夢の世界の住人も、世間一般が思っているほどそう安穏な生活は送っていないってことなのかな。
「そろそろ消化されたわね」
広間に戻ると、人魚は自分のおなかをさすってそう言った。
うーん。この言葉と仕草もなんだかちょっとだ。
彼女がこれから何をするのかとか、何を意味してそう言っているのかとかが分からず、思い切り戸惑った表情のまま隣に並ぶ。人魚はそんな私を横目で見ると、面白そうに片目をつむった。
「人魚の仕事は歌をうたうこと。石喰人魚はそれプラス石を喰べることよ。石はもう喰べ終わったから、今度は歌をうたわなくちゃね。それに、そろそろあなたを帰さなくてはいけないし」
「帰す……。私、帰れるのっ?」
言葉の泡の飲み込み方を間違えてしまったんじゃないかな。そう自分を疑ったほど、私は人魚の言葉に驚いてしまった。
帰れる。この夢の世界から現実の世界へと、帰ることが出来る。幻なんかじゃない苳太に会える。会いに行ける。んだよね? 私、帰れる……んだ。
「ようやく、帰れる!」
ごぼぼぼぼぼ!
思い切り叫んで空気を吐き出して、すぐにその危険性に気が付いて口を押さえた。なんとか石は飛び出さずに済んだものの、勢いで体が浮き上がってしまう。慌てて人魚にしがみつくと、こぽこぽと笑われてしまった。
なんだか本当に人魚にはお世話になりっぱなしだ。
「さあ、お客様はそこの台座に座ってね」
まだ小さな笑いの泡を吐き出しながら、人魚は私を台座に導いた。
先ほどと同じく、浮かび上がらないように手すりをしっかりと握り締め、私がなんとか台座に落ち着く。人魚は私が収まるのを確認すると、ひとり広間の中央に移動した。
ゆれる尾ひれ。ゆれる髪の毛。海上から送られてくる太陽の光線を浴びて、彼女はしばらくの間なにもせずに、ただゆらゆらと漂っている。
静かな、静かな時間。
あまりに綺麗な彼女の姿と海の静けさに、私はそっと身震いをした。
と、その時彼女の口から空気が漏れる。
こぽこぽ。こぽ。こぽぽぽぽ……。
天を仰ぐように顔を上げ、すべてを包み込んでしまうかのような微笑をたたえて息を吐き出す。
時には強く、時には弱く。速くなったり、ゆっくりしたり。テンポをとるように尾ひれを動かし、両手を広げ、彼女は力強くその吐き出す泡で自分を表現してゆく。
これが、歌?
彼女の姿は光の波の中できらきらと輝き、彼女の口からあふれる泡は歌となって海上へ向かって昇ってゆく。ひとつに交わって大きくなったり、いくつにも分離して細かくなったり、たえず姿を変え揺らめく泡。それらの粒のひとつひとつは各々自分の意思を持っているもののようで、それを見ている私の気持ちはだんだんとむずむずしてきた。
人魚の歌声を聴いてみたい。
無理かな?
でも、あんなに気持ちよさそうに歌っているのに声が聞こえないなんて、なんだかすごくもったいない気がする。今のこの状況だって十分滅多に無いことだけれど、人魚の歌声なんてそれよりもっと滅多に聴けるものではないんだし。こんな機会、逃す手は無いよね?
こぽこぽ。こぽこぽ。
人魚を中心として昇ってゆく泡は、切れ目無く続いている。私はそっと近付くとその泡の柱に手を差し伸べ、泡のひとつを手のひらに包み込んで取り出すと、飲み込んでみた。
こぽこぽ。こぽ。
人魚の泡は私の体に入った途端、変化した。海の中の景色は変わらないのに、私の目にはまた幻が見えてくる。
さっき人魚が口直しにくれたのと同じの、この崩れかけた遺跡が建てられた当時の風景。たくさんの人々がそれらの建物の中で暮らしている。市場には異国からの布や香辛料を広げた屋台が並び、その横を子供たちが走り抜けてゆく。通りを歩く人々の顔。いろいろな人たち。いろいろな出来事。そして、いろいろな感情。体の中に溶け込む何千年も昔の記憶。
歌となった遺跡の記憶は自分が喰べた時よりもはるかに優しく染みてゆき、その中に苳太とのことも混ざっているような気がして、私はくすくす笑い出してしまった。さっきはあれほど悲しく感じられた想像なのに、なんでだろう、今はとても楽しく思えてしまう。
くすくすくすくす笑いながら、ゆっくりゆっくり泡とともに私は浮き上がり、海面へ向かって昇ってゆく。ゆっくり、ゆっくり、歌とともに。
漂い浮かんでゆきながら、私は真下に視線を落とした。
人魚は私が振り返るのを知っていたかのように顔を上げ、私に向かって歌の泡を吐き出し続ける。その顔はとても穏やかで満ち足りていて、私はそんな彼女の表情を見て気が付いた。
この歌の中には、メートリッケの感情も詰まっている。それを私は感じることが出来る。そしてそれ以外の悲しみや憎しみや恐怖なんかも。だけど、そういう負の感情ですら幸せや喜びと同じくらい優しい気持ちで受け止めることが出来るんだ。
どろどろとして攻撃的な感情も悲しくて辛い気持ちも、すべて幸せと一緒に混ぜ合わされる。メートリッケもお父さんも、いたずら小僧も金持ち奥様も、すべてが一緒くたになってどれがどれだか分からないくらい混ぜ合わさって、そして、人魚の中で穏やかな気持ちへと変わってゆく。
それはまるでフィルターで漉され清められた感情が、純粋で透明な気持ちの結晶へと変わっていったかのようだった。負の感情を浄化したのは人魚なのかな。それとも感情を染み込ませた石のほう?
ようやく海面に浮かび上がった私は、初めて見る世界のように地上の景色を見回した。
そびえたつ崖。オリーヴの木。青い空。そして海。
こぽこぽ。こぽこぽ。
絶え間なく送り出される泡は水面ではじけ、泡から飛び出た遺跡の記憶は地上の空気とひとつに溶け合う。
浄化された気持ちは空気に触れた途端、懐かしくて胸の奥がかすかに疼く、そんな種類の幸せへと形を変えて消えてゆくのが私には感じられた。
こぽこぽ。こぽこぽ。
泡の音を聞きながら、静かに眼を閉じてみる。
こぽこぽ。こぽこぽ。
これが人魚の歌。これが遺跡の思い出。幸せの歌。人魚の声。
こぽこぽ。こぽこぽ。こぽぽぽぽ……。
ことこと。ことことこと。
海底から水面に浮かび上がるかのように、私の意識はしだいに目覚めていった。
ことこと。ことことこと。
なんだろう、この音。ひどく懐かしい気がする。
ゆっくりと目を開けると、夢から帰ってきた私を出迎えるように、ひとつの顔が私の顔をのぞき込んでいた。
「苳太……」
小さくつぶやくと、苳太が無言でうなずいた。
「なんで、いるの……?」
あやうく「合コンは?」とまで言いそうになって、中途半端に口をつぐむ。
「携帯に電話したら留守電にもならないし、バイト先に顔出したら風邪引いて休んでますって言われてさ、とりあえずここまで来たんだけど。鍵もかけずに寝ているんだもんな、志乃」
「えーっと」
いや、そうじゃなくて、
と言おうとしたけれど、これも口に出す前に止めてしまった。またケンカの話を蒸し返すほど、今の私は気力も体力も持っていない。
寝起きのぼんやりした頭を振りながら、私は上半身を起こした。
「熱は?」
「寝る前はあったけど、でも、今は下がっている気がする。さっきに比べてとても楽になったから」
「確かに寝顔は安らかだったな」
「見たの?」
さすがにそれは恥ずかしくて、私は苳太をにらみつけた。でも彼はそんな私にお構いなく、話しを続ける。
「すっごい気持ち良さそうに寝てた。時々嬉しそうに微笑んだりして。ああ、こいつ今良い夢見てるんだなって思ったけど、違う?」
「……違わない」
苳太の問いかけに今まで見ていた夢を思い出して、私はゆっくり微笑んだ。
地中海石喰人魚。一体どうなることかと思ったけれど、でも、良い夢見られて良かったな。
「よっぽど良い夢見たんだな」
そうしてそれ以上は深く聞かず、苳太は立ち上がると冷蔵庫から卵を取り出した。
「何、してるの?」
「お粥作っていたんだ。志乃、面倒がって朝からなにも食べていないだろ。病気のときは無理してでも食わなきゃ駄目なんだぞ」
「料理、できたんだ」
「ま、人に食わすほどのもんじゃ無いけどな」
そう言いながらも箸で卵をときほぐす音はリズミカルで、ガスコンロに向かってなにか作業をしている苳太の後姿は、なかなかに手馴れたものを感じさせた。何の歌だか判別できないほどかすかな鼻歌。まるで昨日のことなどなにも無かったような苳太の態度。
ぼんやりと彼の後姿を見続けていたら、作業はひと段落付いたのか、タオルで手を拭きながら戻ってきた。
「とき卵投入完了。あとは余熱で蒸らすだけ。ちゃんと土鍋があって助かったよ。やっぱりこういうのは土鍋でないと」
その言葉に、私はようやく目覚める直前に聞いた音が何であるか思い至った。
「お鍋が、ずっとことこといっていたね」
「冷や飯が無かったからな。ちゃんと米から炊いたんだ」
「夢の中でも、その音が聞こえていた。こぽこぽって、海の中の泡の音」
苳太はなにも言わず、ただゆったりとした表情で私を眺めていただけだった。
私もそれ以上はなにも言わず、視線を布団に落としてしまう。
ちょっとの沈黙。
そして私が話を切り出す。
「……私、もう駄目なんだと思っていた」
「何が」
「苳太との仲が。昨日のケンカで、もう私たち駄目になったんだって思っていた。目が覚めて、苳太がいるからびっくりした」
「大げさな奴だな」
枕元に腰を下ろすと、苳太は枕元に転がるペットボトルを拾い上げ、端に寄せた。
「それとも、ケンカ別れ以外だったら俺と別れても良かった?」
言葉とは裏腹に、苳太はそっと私の肩を抱く。
「別れたかったら、こんなに寂しくならないよ」
苳太にもたれかかると、自分でもおおっと思うくらい素直な言葉が口から出た。
私の肩を抱く苳太の左腕から、髪に触れる首筋から、夢の中であれほど焦がれた苳太のぬくもりが伝わってくる。こうして本物の苳太を感じていると、一人で思い悩んできりきりしていた自分が馬鹿らしくなってきた。
「でも、あの時は本当に駄目になるかと思ったんだもの」
苳太の横顔を見つめて、昨日の怒ったときの冷たい表情を思い返す。あの瞳は忘れられない。苳太が本気で怒るとあんな表情になるなんて、昨日初めて知った。
「不安そうな顔してる」
苳太は私の顔をのぞきこむとそう言って、私のほっぺたをむにゅっと引っ張った。
「でも、そんな顔させたのは俺のせいだよな。ごめん」
そして軽く口づけて、私の体を抱きしめた。
「なっ」
油断をしていたせいか、まさかそんな行動を起こされると思わず、体温が一気に上がる。
「か、風邪うつるよっ?」
「大丈夫。俺、そこまでやわじゃないから」
あっさりと答えると、苳太は私に向かってにっこりと微笑みかけた。例の、鮮やかなまでの牧羊犬の微笑み。ああ、この笑顔。本物の苳太だ。
一気に安堵感が押し寄せて、なんだか涙が出そうになって慌てて目をそらした。いくらケンカした後風邪引いて弱っていたからといって、そこまで素直に泣き顔見せるのもちょっとしゃくだ。
「苳太に翻弄されてばっかりだ」
悔しいついでにそう抗議すると、苳太は心外だと言わんばかりに眉を寄せた。
「お互い様だろ?」
「翻弄なんか、してないよ」
「してるよ」
断言すると、もう一度私の体を抱きしめて、首筋にそっと唇を落とす。
「と、苳太?」
焦ってひっくり返った声で呼びかけたら、ぽつりとつぶやかれた。
「俺さ、付き合って最初の頃、口ゲンカする度にこれでもう駄目になるって、思っていた」
「え、え?」
突然の話に戸惑う私に、苳太はゆっくりと顔を上げ、じっと見つめてくる。
「それなのに、志乃はその度にまだ大丈夫って顔して、俺に会いに来るんだ。何回かそれ繰り返して、悟ったというわけ。両方同時にもう駄目だって思ったらもう仕方ないけれど、でも、どちらか一人が絶対に大丈夫だって信じていれば、大丈夫。なんとかなっちゃうものなんだよ。まだお互いに相手に対する気持ちが残っているうちはな」
真っ直ぐな、苳太の瞳。その思いもかけない真摯な表情に動かされて、私はそっと彼の腕に触れる。
「本当に、なんとかなっちゃうもの?」
「俺のほうは志乃と続けていくつもりだから、大丈夫。まだまだ先は長いんだし」
「長く、続けたい?」
「うん。続けたい」
きっぱりと言い切る苳太を見て、私の心がようやく軽くなった。それはまるで溺れかけた私に人魚がくれた、あの遺跡の欠片を口に入れたときの、そんな感じによく似ていた。
苳太はそんな私にもう一度微笑みかけると、頭をなでるようにぽんぽんと叩く。
「お粥も出来た頃だから、早く食べな」
「うん」
よそってきてくれたお粥は卵の半熟加減もちょうど良く、ねぎの小口切りにしたのまで乗っていて、見た目が綺麗だった。付き合って一年、一人暮らしの家にも行っていたわりに、ここまで料理をする人だと思っていなかったので驚きだ。ゆっくり一口食べてみると、冬ねぎの甘さがお粥と溶け合っていて美味しい。私の体にじんわりとお粥の暖かさが染み込んで、それがあまりにも人魚の歌を飲み込んだときのあの感覚にそっくりだったので、目を見張った。
「美味しい?」
ごく自然にそう聞く苳太。
「……うん。美味しい」
深くうなずきながら食べ続け、心の中でさっきまで見ていた夢を繰り返し繰り返し思い返していた。
地中海の海の中、そこには石を喰べる人魚が住んでいる。
彼女は遺跡の記憶を自分の中に取り込んで、人の思いを浄化して、歌へと形を変えて解放する。歌は空気と混ざり合い、幸福へとさらに形を変えて世界を回り、そしてそれは苳太の作るお粥にも染み込んで、私の部屋にも届いている。
遺跡の思い出。人魚の歌。苳太のお粥。苳太の笑顔。
苳太がいる。ただそれだけのこと。
ああ、そうか。今まで気が付かなかっただけで、人魚の歌はいつでも私の元に届いていた。
「苳太。もう二度と私の目の前から、いきなり消えたりしないでね」
「ん?」
意味が分からず不思議そうな顔をした苳太を見て、私はつい笑ってしまった。そして笑いながら、心の中で繰り返す。
地中海には、石を喰う人魚が住んでいる。本当だよ。
-終わり-