遠い記憶

2.草原の章


その6


 どぉんとゆっくり太鼓が鳴るたびに、シャラブの体が動き、すり足で一歩前進する。以前テレビで見たことのある、能の舞に似た動き。動作が抑えられている分、見ているこちらの集中力も高まっていく。

 太鼓が鳴る。
 一歩進む。

 太鼓が鳴る。
 一歩進む。
 
 そうやって、シャラブは井戸を囲むように周り始めた。
 見つめる私達は無言のまま、ただ彼の動きを目で追っている。
 
 何周かを回るうち、ジハンの鳴らす太鼓のリズムが少しずつ早まってきたことに気が付いた。
 少しずつ、少しずつ。集中力を高めたまま、静から動へと舞が変化してゆく。
 歩く速度と変わらないくらいになったところで、太鼓の音が止んだ。井戸の正面でシャラブも止まり、一瞬辺りがすべて無音に包まれる。
 
 すっとシャラブの手が上がると、体にまとっている布が翻った。
 と、その時一斉に鐘が鳴った。
 
 私の周りや広場でも、鐘を持たないものは手を叩き、一つのリズムを奏でてゆく。太鼓の音もすぐに加わって、その演奏が厚みを増す。シャラブはそんなリズムを一身に受け、井戸に向かって踊りを奉納した。
 大きくだんっと踏み込んで、井戸を覗き込むように前のめりになる。すかさず体をそり返し、腕を大地から大空へと振り上げる。
 一つの動作をする度に、まとった布がひらりと揺れ、彼の動きを大きく見せる。さらに人々の奏でる演奏が気分を高揚させ、観ているこちらを惹き込ませる。
 魂が震えてくる。
 打楽器のリズムに乗せられて、気が付けば私も手を叩いていた。広場を見渡せば、鐘を鳴らし足踏みをするように踊っている人もいる。自分の中から湧き出てくる力を、人々はすべて演奏や踊りに託していた。
「この踊りさ、アクタに一度はやらせてみたかったって、前にシャラブが言っていた」
「ええ?」
 演奏にかき消されないよう、耳元で怒鳴るようにヒコに言われ、戸惑って反射的に聞き返した。
 シャラブの動きは老人とは思えないほど力強く、それでいてしなやかさを感じさせる。強靭という言葉を連想させる踊りだ。
「人によって、イメージって変わるだろ。女性の持つ柔らかい感じの踊りが観たかったって」
 次代の踊り手はジハンだもんな。
 そう笑いながら付け足すと、ヒコは拍手を続けた。私もシャラブに視線を戻し、拍手しながら想像をしてみる。
 どこか武術を思わせるシャラブの舞。それとは反対の、優雅な舞を披露するアクタの姿。
 純粋に見てみたいなという気持ちは沸き起こったけれど、それを舞う自分の姿は想像できなかった。逆に思い出したのは、学校の体育の授業で嫌々やらされた創作ダンス。ぎくしゃくとした動きのあれが脳裏に浮かび、自然に苦笑が浮かんでしまう。アクタの時はどうかは覚えていないけれど、今の私に踊りは無理だ。
 過去の恥ずかしい思い出を振り払うように、辺りを見回した。リズムに乗ることによって、舞手であるシャラブと一体化している人達。井戸をはさんでテントの反対側、控えているホンジやナランに付いてきた子供達が、体全体で楽器を鳴らし踊っていた。さすがにシャラウやオユナ、四、五歳児くらいだときちんとリズムも合っていて、見ているこちらが感心するような動きを見せている。
 やっぱり生まれたときから耳に親しんでいる音とリズムだもんね。
 一生懸命拍手をしているはずなのに、どうも微妙に合っていない気がする自分の動きを自覚して、ちょっと情けなくなってしまった。さすがにニャムヤムは小さいせいか、動きがなんだかたどたどしい。今の私はあのくらいのレベルなのかも。
 つい注意力が散漫になってそんな事を考えていたら、左隣から拓也の短い呟きが聞えた。
「そろそろ、来る」
 気が付くと、右隣のヒコの拍手が止んでいた。美幸も真剣な表情で、井戸を見つめている。三人の緊張した様子に、私も目を凝らして井戸を見つめてみた。

 大きくだんっと踏み込んで、井戸を覗き込むように前のめりになる。すかさず体をそり返し、腕を大地から大空へと振り上げる。
 シャラブの舞は延々と繰り返され、その度に井戸の周りだけ空気の密度が濃くなっていく。気など分かるはずの無い私ですら、みんなの影響かそう感じていた。
 
 翻る、シャラブの衣装。
 打ち鳴らされる太鼓と鐘。
 
 集中され、一つにまとまる人々のパワー。 高揚した心は極限まで高められ、どこか息苦しくて、無意識のうちに胸元を押さえてしまう。
 ベールに隠されたシャラブの表情が、どんなものかは分からない。けれどジハンの怖いくらいに真剣な顔つきに、彼が私達と同じものを感じているのを知った。
 押しつぶされそうな圧迫感。意味もなく叫びだしたくなる衝動が沸き起こる。
 その瞬間、拓也が叫んだ。
「来た!」
 轟音と共に、井戸から強い風が吹き上がった。あっという間にやぐらが吹き飛ぶ。いたるところからどよめきが起こった。
「まずい。龍が分散している」
「えっ?」
 ヒコの言葉の意味を問いただす間もなく強風にあおられ、とっさに顔を袖で覆った。立っているのもままならないほどの突風に、足元がよろめく。竜巻に巻き込まれたみたいだ。
「何、これっ」
 たまらずに叫んだけれど、何とか両足で踏ん張ったところで、急にぴたりと風が止んだ。不思議に思って顔を上げると、かばう様に私の前方に拓也が立っている。
 背筋を真っ直ぐに伸ばし、重心を低くして腰を入れ、両手を空にかざす。その状態で空の一点を見つめる拓也の姿。
 一瞬ぼんやりとその光景を眺めてしまったけれど、すぐに広場からの悲鳴で我に返った。
「オーロ、一匹そっちに逃げたぞ!」
「分かってるよっ」
 気が付けば少し離れた場所に移動したヒコが、同じように両手を広場に向けてかざしていた。吹きすさぶ風に次々と人が倒れるけれど、ヒコが小さく「はっ」と気合を発すると、次第にその風が収束され、止んでゆく。
「これ、は……?」
 目の前で起きていることなのに、自分の中で上手く説明がつかず、疑問が口を突く。そんな私のつぶやきが聞えたらしく、振り返らずに拓也が答えた。
「井戸から上った水脈の気が、分散しているんだ。普段なら一匹の大きな龍の形となって天に上るのに、何匹にも増殖して地や中空をのたうっている」
「で、それを今、術士達で抑えているって訳」
 拓也の後をついでそう言うと、ヒコは美幸に呼びかけた。
「エシゲ、そっちは?」
「束にして捕まえているわよ。小物の一匹や二匹見逃したいところだけれど、これだけ気が不安定だとそれも無理ね」
 淡々とした美幸の口調。けれど彼女の目付きもやはり鋭い。
 三人のそんな勇姿を交互に見つめ、それからはっと気が付いて井戸へ視線を動かした。
「シャラブ達は!」
 井戸からの突風にあおられていないか、吹き飛んだやぐらに当たって怪我していないか。そんな心配から焦っていたけれど、それはどうやら無用のようだった。
 拓也達と同じように重心を低く構え、井戸の真上に向かって手をかざしている二人の姿がそこにあった。龍の姿は見えないけれど、渦巻く風が上空で吹き荒んでいるのが見て取れる。
 竜巻のような気を、術で無理やり押さえ込んでいるんだ。
 拓也達を含め、彼ら術士達のしている事をはじめて理解した。
 ジハンの額に、汗が浮かんでいる。シャラブのベールも取れ、射る様な瞳が一点を見つめぴくりとも動かない。テントの周りの関係者達も一様にそちらを見つめている。その半数、十数名ほどは術士らしく身を構え、龍の動きを封じようと必死になっていた。
「本流は我々が押さえておる。そちらで捕まえたものとすべて一つにしてから、天に解き放つしかあるまい」
 視線を動かさないシャラブから、指示が飛んだ。
「承知した」
 拓也が短く返答をし、それを合図に三人がゆっくりと井戸に向き直る。
 深く息を吸い込むと少しずつ吐き出しながら、上空に向かって手をかざす。びりびりとするような緊張感の中、私だけが何も出来ずにこの光景を眺めていた。
「あと少し。そう、もう少し寄せて」
 風の音がごうごうと鳴っているけれど、誰もが無言で空を見詰めている。まるで独り言のようなヒコの言葉が、風に消されること無くやけに響いた。
 みんなの目には、龍がのた打ち回りながら一つに融合されている姿が見えるんだろうか。倒れたやぐらから奉納された布がいくつも引きちぎられ、風にくるくると舞っている。
 私はただ風のうなる音を聞き、ぎゅっと手を握り締め、祈るような気持ちで空を見上げ続ける。
「くっ……」
 拓也の口から言葉が洩れ、さらに風の音が強まった。その様子から、後もう少しで龍が一つにまとまるんだと理解する。けれどその時、井戸からひゅっと風の抜ける音がした。
「ヤーナ、チャダフグイ!」
 誰かの叫ぶ声がしてあちこちで悲鳴が起きる。こちら側の張り詰めた緊張感とは別に、広場では騒ぎが起きていた。
 最後に残った龍が飛び出て、暴れている。
 風は広場を駆け抜け、幾人かを弾き飛ばす。逃げ惑う人々。泣き叫ぶ声。一瞬の間に風は人々を追い立てると上昇し、こちらに向かって進路を変えてきた。
「危ない!」
 そう叫ぶと共に、私は走り出していた。
 風の向かう先にはシャラウやオユナ、ニャムヤムがいる。龍をまとめることに全力を傾けている拓也達に、素早い対応を求めることなんて出来ない。それに何より、ただ見ているだけの自分に我慢が出来なかった。
「ナラン! エルデ! ホンジ!」
 子供達をかばおうと、そこにいた数人が一斉に肩を寄せ合っていた。子供達はこのスクラムの中。吹き飛ばされないようにして、身を守る。私もその一つになろうとして走り寄った。少しでも、壁は厚いほうが良い。
 けれど辿り着く手前、狙いを定めたかのように突風が真っ直ぐに私の体の中を通り抜けた。
「わあっ……!」
 風にもみくちゃにされ、息が詰まる。風の音が上からも下からも聞えて、体は妙な浮遊感に支配されていた。
 
 心が、ざわつく。
 
 どこか馴染んだあの感覚がよみがえった。
 風にさらわれそうになる。

 でも、どこへ?

 一瞬、ケレイトの衣装を着た女の人の後姿が目に浮かんだ。

「アクタ!」
 耳元で怒鳴る声が聞こえ、我に返った。
 時間にして数秒もなかったに違いない。人々の騒ぐ声は相変わらず聞こえるけれど、風はきれいに治まっているようだ。
「たく、」
 拓也と言おうとして、あまりの苦しさに言葉が途切れる。気が付けば拓也の腕の中、ぎゅうぎゅうに抱きしめられていた。というか、締め付けられている。
「あの、ちょっと、苦し……」
 抗議をしてみるけれど、力の緩む気配がしない。それどころかますます苦しくなってゆく。
 まるでしがみ付かれているみたいだ。
 そう思った途端、彼の体が小刻みに震えていることに気が付いた。
「拓也?」
 私の呼びかけはくぐもって、彼の胸元で消えてしまうらしい。その反応の無さに、また少しだけため息が洩れてしまう。
 いっそ無理やり突き放すしかないんだろうか。
 あまり取りたくは無いその方法に思いを馳せると、頭上から美幸の冷静な声が聞こえた。
「サイムジン・ハング」
 拓也の体がぴくりと動く。
「彼女はアクタ・ケレイトアではない。成田真子よ」
 短く、的確な言葉。ゆるゆると拓也は力を抜くと、私の顔をぼんやりと眺めた。
「拓也……」
 蒼ざめた顔。失って、傷付いて、そしてそれがまた起こるのを恐れている、そんな表情。
 ああ、そっか。
 急に霧が晴れて視界が明るくなる様に、拓也の気持ちが見えてきた。
 ずっと心に引っかかっていた。なんで平気な振りをしようとするのか。自分ひとりで責任を背負い込んで、私が前世を思い出そうとするのを拒絶して、心の中に踏み込まれないように自衛して。
 それは、また失うのを恐れているから。目の前で仲間を失う辛さを、二度と味わいたくないから。
 でも、
「拓也」
 彼の瞳を真っ直ぐ見返し、ゆっくりと口を開く。
「私は、死んでいない。生きているよ」
 だから、過去に失ったものと重ねたり無理に引き離したりしないで、今の私をそのまま見てよ。
 そんな気持ちを込めて、彼の瞳を見つめ続けた。
 しばらく続く、無言の状態。
「真子」
 ぽつりとつぶやいて、拓也が私を見つめ返す。少しずつ、合わさってゆく視線。
 私は拓也の反応を確かめるように、言葉を返した。
「うん。ここにいる」
「……ああ」
 うなずくと、拓也はうつむきながら深く息を吐き出す。
 深く、深く。体中から酸素が抜けそうになるくらい、深く。
 そして顔を上げ、今度は自分から私のことを見つめ返した。
「一つ、言って良い?」
「え? 何?」
 次第に表情の戻ってくる拓也にほっとする。けれどその表情は予想に反してどんどんと険しくなり、不機嫌そうになっていった。
「お前はーっ。人がどれだけ心配したと思っているんだ」
 って、え?
「向こう見ずなんだよ。普通、こんな状態で龍に立ち向かってゆくか?」
「ちょっと待ってよ。いきなり説教っ?」
 今までとの落差に驚きながらも、反射的に言い返す。一方的に怒られるのは理不尽だ。
「別に、龍に立ち向かうつもりなんて無かったもん。あっちが勝手に突撃してきたんだし」
 けれどこの態度が、余計に拓也の気に触ったらしい。さらに不機嫌そうな表情に磨きがかかった。
「屁理屈だろ、それ。一歩間違えば死ぬところだったんだぞ。説教だけですんでありがたいと思え」
「それは否定できないけど、でも、そんな言い方無いんじゃないの」
「おーい」
 どんどんとヒートアップしそうなところに、ヒコの声がかぶさる。
「無事が確認できたなら、次の作業に移らせてくれよ。いい加減、龍抑えているの辛いんですけど」
 心底うんざりしたような口調で言われ、ようやく今の状況を思い出した。
「龍! ごめん、ヒコ!」
「いや、抑えているのオーロだけじゃないから」
「悪い」
 美幸のもっともな突っ込みに拓也は素早く立ち上がると、まだへたり込んでいる私に手を差し出した。散々怒っていたくせに、こういうところは抜かりない。海外生活で染み付いた、レディーファーストってやつなんだろうか。
 なんだかちょっとやられた気になって悔しかったけれど、すぐに観念してその手を取る。
「立てる?」
「大丈夫」
 ぐいっと引っ張り上げられ、立ち上がった。視線が一瞬絡まって、お互いの顔をまじまじと見詰める。
 ずっと捕らえる事の出来なかった拓也の視線。今、彼の目には私が映っている。
 胸がうずくようなそれでいて照れるような、そんな中途半端で説明のつかない感情が沸き起こる。なんだか気の抜けた笑みが浮かんでしまった。対する拓也も同じような表情をしている。
「ごめん」
 それだけ言って、視線を外された。何に対しての謝りなんだか、言われた私にはよく分からない。でもこれだけで、今まで怒ったりもやもやしていたこと、流しても良いかなって思ってしまった。単純だなとも思うんだけど。でも、それでも良いよね。
「さてと、それでは仕上げにかかろうか」
 シャラブの言葉に、井戸の上空を慌てて見上げた。竜巻はいまだ健在、どころかすべての気が合わさりかなりの勢力になっている。それなりの人数がいたとはいえ、こんなのを押さえつけていた術士という存在に、あらためて驚きだ。
「これ、どうするの?」
 拓也達に聞いたつもりだったけれど、シャラブが代わりに答えてくれた。
「龍は天に昇るもの。普通ならこのまま解き放って、勝手に好きなところへ行かせるのだが、これだけ気が不安定ではそれもままならん。下手なところに行かれて、大気の均衡が崩れても困るしな。我らが御するので、あなた方が路を見つけ、龍を正しき場所まで誘導してもらいたい」
 そんなシャラブの依頼に戸惑うことなく、三人はうなずいた。
「私が鳥を出しましょう」
 澄んだ声で美幸、というよりもエシゲが言い、両手を丸く形作る。
 しばらく意識を集中させるようにうつむくと、指の隙間からふわっと光が洩れた。彼女がそれを天に放つと、光は青空の中、柔らかな輝きを持って上へ上へと昇ってゆく。
「手品みたいだ……」
 口をぽっかりと開け、子供のように素直に思いついた事を言ったら、ヒコにふき出されてしまった。
「気の抜けるような事を言うなよ」
 そうして口元に笑みを残しながら、真剣な目で光を追っていく。
 祭りが始まる前から感じていた、大気の不安定な気配はまだ続いている。その中を光は漂うようにゆらゆらと進んでいった。時々大きく旋回したり左右に折れてみたりするのは、三人が見えない路を選んでいるからなんだろうか。
 かなり遠くの位置で光がいったん止まると、拓也がシャラブに声を掛けた。
「では龍をここに」
「うむ」
 うなずくと、シャラブは確認をするようにあたりを見渡す。気が付けば井戸の周りだけでなく、広場で逃げ惑っていた人々も落ち着きを取り戻し、この儀式の続きを見つめていた。
 シャラブの背筋がすっと伸び、居住まいを正す。それだけで空気がぴんと張り詰めて、静寂に包まれた。
 ゆっくりとした呼気に合わせるよう、彼の手が上がる。さらにそんなシャラブの動きにあわせるように、ジハンや他の術士達の手も上がった。
「行け、龍よ。そして雨を捕まえて来い」
 その言葉を合図にして、今まで無理にとどめられていた竜巻がゆっくりと動き出す。直線的ではない、ゆらりとした動きを示しながら、それは光の軌跡をなぞるように上っていった。
  龍が、鳥の後を追ってゆく。
 すでに私の目には光も見えていないけれど、三人はいつまでも上空から目を離さず、言葉も発しない。誘導は、竜巻すら遥か彼方に消えるまで続いていた。