遠い記憶

2.草原の章


その7


 ふうっと、誰かの息が洩れる音を聞いた。
「これで、良いだろう」
 いつまでも空を見つめて上げていた手をようやく下ろし、シャラブが短く言い切る。途端にほっとして力が抜けてしまったけれど、シャラブが三人に向き直ったので、私も慌てて背筋を伸ばした。
「ご協力に感謝する」
 シャラブだけでない、ここにいる全ての人達が深々と頭を下げる。けれどその頭が上がると、一気に歓声が沸き起こった。
「う、わぁ」
 最後の騒ぎとばかりに打ち鳴らされる鐘や太鼓。人々の顔に笑顔があって、くだけた雰囲気に変わって行く。
「雨乞い、これで終わったの?」
 よく分からずに拓也に聞いたら、急に手を引かれて微笑まれた。
「終わったから、ゲルに戻るよ」
 いつもの王子様スマイル。でも取り繕った感じのではなく、素直な笑顔。
 一瞬本気で見とれてしまい、顔が火照る前にと慌てて意識を周りに向けた。気持ちが近付いたのは良いんだけれど、こうも無防備に微笑まれるとどう対応して良いんだか分からなくなる。本人にとっては、ごく自然の表情なんだろうけど。
「戻るって?」
 視線を落ち着きなく彷徨わせていると、ヒコが私の横をすり抜けつつ、解説してくれた。
「雨乞いは終了。後は雨が降るのを待つだけ。ここにあえて残って雨に濡れるっていうのも楽しいけれど、その衣装じゃ後が大変だろ?」
 気が付けば人の流れは二手に別れ、まだ残って余韻を楽しむ一団と、慌てて丘を降りてゆく一団とになっている。
 美幸もヒコも早足に去ってしまうけれど、すべてが初めてだった私はなんとなく立ち去りがたい。手を引いたきりそれ以上は急かさない拓也の気遣いに甘えて、ぼんやりと人の波を見てしまう。けれど祭りの余韻を楽しむ間もなく、遠くからかすかに、獣のうなり声のような低くゴロゴロいう音が聞えてきた。
「雷」
 気付けば空の端のほう、薄墨色の雨雲が現れていた。
「直に雨が来るよ」
 今度こそ戻るように促され、慌てて走り出す。みんなの後を追いかけながら、なんだか妙にはしゃいだ気分になって、笑いが沸き起こった。
「龍が雨雲を捕まえたって事だよね」
「うん」
「ってことは、この雨乞いが成功したって事だよね」
「まあね」
 拓也のうなずきに「そっか」と返して、追いついた美幸の背中にいきなり抱きつく。突然の出来事に小さく悲鳴を上げる美幸に笑い、そしてもう一回ぎゅっと抱きついた。
「浮かれてるの?」
 素っ気ない口調だけれど、決して振りほどいたりしない。気が付けばずいぶんと近くなっている美幸との距離にも、嬉しくなっていた。
「だって、お祭りだし」
「まあな」
 納得したような口調でヒコが返す。ただ見ているだけだった私と違い、みんなは雨乞いを成功させるという大役を務めている。三人にはどこかほっとしたような、気の抜けた雰囲気が漂っていた。

 社務所ゲルに戻ってしばらくすると、ぽつぽつと雨が降ってきた。大粒の水滴はすぐに大きな音をたてて量を増し、あっという間に豪雨になる。たまりかねたように馬達がいななく声が聞こえたけれど、それよりも雷の勢いに驚いた。
 どこまでも平面のこの土地で、地面から出ている物といったらゲルや牛車ばかり。こんなところで雷が落ちたら、たまったものではない。絶え間なくばりばりと音をたてる空に不安になったけれど、それもすぐにやんでしまった。この間、十数分。まるでスコールだ。
「こんな一瞬の、なおかつ一回だけの雨で、今後の一年間が左右されるんだよね」
 私が疑問を口にすると、
「必要な時に、必要な量、必要なものが与えられれば良いんです。それ以上はいりません」
 ジハンはそういって微笑んだ。


 あくる日になった。

 夜明けと共に起き出して、旅を再開する準備をする。ホンジや今回のお祭りで知り合った人達と朝食をとると、シャラブの元へお別れの挨拶をしに行った。
「そろそろ行くか」
「はい。大変お世話になりました」
 私を含めこれから旅立つ五人が、族長である彼の前で正座をし、おでこを三度地面につけて礼をする。
 顔を上げ、シャラブの柔和な笑顔を見つめると、私はためらいつつも布に包まれた装飾品を差し出した。
「どうした?」
「これ、私達が正装した時に使わせてもらっていたものなんですけど」
 首をかしげて尋ねるシャラブに、困りながら説明する。
「あの、借りていたものだからお返ししようと思ったんです。でも、ホンジに受け取ってもらえなくて。今、ここでお返ししても良いでしょうか」
 牛車の支度に美幸が行っている間、私は自分達のゲルの片づけをしていた。その時にこの装飾品を返そうとしたんだけれど、なぜかホンジは受け取ろうとしなかったんだ。衣装は受け取ってくれたのに、なんでだろう。一生懸命説明されていたんだけれど、さすがに言葉が通じないので分からなかった。
 シャラブはそんな私の顔を見ると、ホンジと同じように包みを私の手にそっと戻した。
「これはこれからのお前達に必要なものだ。持って行きなさい」
「え、あの」
「我らは家畜が増えると市場で売り、宝飾品にして貯める。銀や宝玉は暮らしていく上では飯の足しにも燃料の代わりにもならないものだが、いざとなれば市場で売って家畜に換えることが出来るからな。
 お前達には家畜は足手まといとなるが、市場で必要なものと交換できるだけの財産が必要だ」
 説明され、それでもどうして良いか分からずに辺りを見回す。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
 この中で一番物の価値を知っているジハンが私に向かってうなずくと、真っ先にお礼の言葉を口にした。他の三人も自然な動作で礼をする。
「こんなに色々してもらって、本当に感謝しております」
 美幸の言葉に私も頭を下げた。
「遠慮することは無い。今回の雨乞いの祭りが成功したのは、玉の造り手の協力があったからだ。これはその報酬だと思っておきなさい」
「あ、それなら私ではなく、他の人達に渡してください」
 報酬なら、術も使えず拓也に守ってもらった私が受け取るものではない。慌ててまた包みを返そうとすると、シャラブはゆっくりと首を横に振った。
「お前はこの歪んだ気を正すため、わざわざ転生してまでここに戻って来たのだ。これ位、私達が出来なくてどうする」
 その温かい言葉に胸が一杯になる。感謝の気持ちを言葉にしたかったけれど、なんて伝えれば良いのか分からない。私はただ、頭を下げるばかりだ。
「だがな」
 ふいにシャラブの声に柔らかさが無くなった。つられて顔を上げると、そこには表情を厳しく変えた長の姿があった。
「先の玉が崩壊して十八年。その間、六度の大災に見舞われた。気の乱れはもはや、いかんともしがたいところにまで来ておる。こうまで長期に渡り玉が無ければ、影響はキョエンとその周辺、東大陸世界だけには留まらない。西からの風が、最近は不安定だ。エルムダウリからの風に、鉄のにおいが混じっている」
「エルムダウリ?」
 初めて聞く地名。訳も分からず繰り返してみると、ジハンが横から教えてくれた。
「西の大陸を制する国です。彼らは玉を祀り、玉の力を得ることによって国を成し、西域世界の一大勢力となっている」
 西の大陸という言葉に、以前教えてもらった前世の最後を思い出した。
「私達って、西大陸の兵に殺されたんだよね。その国が、こちらに何かしようとしているの?」
 あやふやな知識を確かめるように、小声で拓也に聞いてみた。
「西の傭兵は、この世界ではどこにでもいる。俺達が殺されたのは、玉の造り手の内部抗争が原因だ。エルムダウリが東大陸に直接何かを仕掛けてきたことは、今まで無いよ」
 その言葉に一瞬ほっとする。けれど、拓也の眉は寄せられたままだった。
「ここ東大陸では、西と違って気の鎮めと国の統治は分かれているんだ。キョエンはあくまでも斎場であって、決して国にはなりえない。気の流れが荒くて変動しやすく、国の統治に使うにはむかないから。だからこそ、今まで西大陸は不可侵を守ってきた。
 けれど、エルムダウリからの風に鉄の匂いがするなら、西大陸で何かしらの動きがあるということだ」
「何かしらの動きって?」
「軍の遠征でしょう。考えられるのは、キョエンの斎場管理。代わりの玉を探し当てた術士達が遠征するなら話は簡単だけれど、軍を主体としているなら、単なる鎮めでは終わらなさそうね」
 気が付けば、みんなの顔も厳しく引き締まっていた。
「今までキョエンに玉が無く気が乱れていても、エルムダウリが表立って介入してくることはありませんでしたが」
「それは東大陸の問題を、わざわざ西が処理することは無いと考えられていたからだ。逆に言えば介入せざるを得ないほど、キョエンの玉の不在は西大陸の気も乱しているってことだよな」
 ジハンの報告に、ヒコが硬い声で問いかける。けれどそれはみんなも分かっている事のようだった。誰もそれには答えることなく、この場に沈黙が満ちる。
「エルムダウリの動向でも分かるように、気の乱れは行き着くところまで行っておる。この夏は雨乞いの成功によって、無事に過ごすことが出来るだろう。だが、冬に寒波が来ないという保証はどこにもない」
 シャラブの口調は重く、族長として人を圧する何か決意のようなものが感じられた。
「シャラブ……?」
 考え込むようにじっと見つめられ、戸惑いつつ呼びかける。シャラブは私から目を反らすことなく、宣言をするかのように口を開いた。
「私はケレイトの族長だ。我が民の事をまず第一に考えている。
 秋まであと二月。それまでには玉を探し終え、ここに戻って来い、アクタ。ケレイト族は南の越冬地を確保するために、秋になったらナイマンタヤイの街を侵攻をする」
「え?」
 話についてゆけずに、固まってしまう。侵攻って、何?
「戦に及ぶつもりですか」
 代わって、ヒコが問いただす。ゆっくりとうなずくシャラブを見て、そこで初めて何を言われたのか理解した。
 自分達が生き延びるため、彼らはこの秋に他民族の土地を奪おうと計画をしている。
 慌てて次代の長であるジハンを見た。彼の表情は落ち着いていて、すでに覚悟済みであることが伺えた。
 己の命を守ることが、他者を攻撃することに直結してしまう。自分達の食事のため羊を屠ることにさえ、天に許しを請う人達なのに。
「そんな……」
 彼らの決意に胸が痛み、唇をかみ締めた。攻撃する方もされる方も、どちらも追い詰められている。この世界のキョエンという場所に、玉が置かれていないというだけで。
「秋までには、あと二月ある」
 私の動揺を気遣ってなのか、ふっとシャラブの口調から険しさが消え、話しかけられた。
「転生までしてこの世界を守るため戻ってきてくれた者達よ、私は玉の造り手の力を信じている。あなた方がチャガンを見つけることは確実だろう。だが我々は、それをいつまでも待つことは出来ない。繰り返すが、ケレイト族は秋になったらナイマンタヤイの街を侵攻をする。覚えておいてくれ」
「分かりました」
 みんなを代表するように拓也が言うと、最後にまた礼をした。あわせるように地面におでこをつけ、私は口に出さずに誓っていた。
 秋までにはチャガンを見つけ、キョエンに、そしてここに戻ってくる。絶対に。


 牛車に乗り込み、荷台の上に腰を下ろす。二日ぶりの旅の再開。美幸とヒコが最初に馬に乗り、私と拓也が後発になった。同じ方向に進む人々を眺めながら、荷台の揺れにしばらく身を任せる。
 一昨日、昨日、今日と三日間だけの滞在だったのに、色んなことがあった気がする。出来事だけではなくて、自分の中の意識とかも変わったし。
 とりあえずチャガンを探すという第一目標は同じだけれど、単純に家に帰りたいだけじゃない、探したい理由が一つ増えた。これは自分にとって大きいかな。
「そういえば、次に行く場所ってどこなの?」
 正面に座る拓也に聞いてみる。確か、チャガンを持っているはずのドゥーレンを捜すんだよね。
 前世の記憶に加えて数年前から準備しているみんなにとって、いまさら次の目的地を確認することは無いみたい。でも私は何も知らないから、こういう時って自分から問いかけなくてはいけないんだ。ここら辺がちょっと面倒って思うんだけれど。
「次の目的地は、ホータンウイリク。オボ山のふもとに位置する交易都市だよ」
「そこにドゥーレンはいるの?」
「多分ね。オボ山は宝玉の産地として有名で、チャガンとなった石もそこで切り出して磨いた。特に打ち合わせをしたわけではないけれど、チャガンを持って逃げるならあそこが一番だ」
「すでにあなた方四人が転生し、揃ってドゥーレンを探しているという情報は、風に乗せて流してもいます。もし違う場所に逃げていたとしても、次代の玉を預かるという使命を負っている方なら、ホータンウイリクまで来ることでしょう」
 牛車を操りながら、ジハンが情報を追加してくれる。それを一緒に聞いている拓也の表情が、遠く懐かしいものを見つめるようになっていた。きっと前世でのことを思い出しているんだろう。
「でも、ここからどのくらいかかる場所なの?」
 また五日とか、へたしたら十日とか言われるんだろうか。ちょっと不安になって、質問を続けてみた。
「一ヶ月」
「はい?」
 ありえない数字に、反射的に聞き返す。今、何て言った? いっかげつ?
「一ヶ月」
 当たり前の事を答えていますといった態度で、拓也が繰り返す。
「えっと、……ケレイト族の期限まであと二月だよね。それなのに、次の目的地に行くまでに、その半分を使っちゃうのっ?」
 そのホータンウイリクに辿り着いた後だって、ドゥーレンを捜す作業は残っている。こんなんじゃ、期限までに間に合わない。
 一人焦る私を眺め、拓也は呆れたようにため息をついた。
「俺達が何探しに行くか、分かっている?」
「チャガンでしょ。それと日数と、どう関係があるのよ」
 むっとして聞き返すと、拓也の呆れた表情もさらに深まった。
「この世界の気を鎮める玉を探すんだよ。見つかれば玉の力を使えば良いんだから、歩いて帰らなくてもいいだろ」
「意味分かんない。歩かなくていいって、飛行機?」
「この世界に飛行機なんて無いよ。俺達、近距離の移動のときに使っているものあるだろ」
 そう言われてやっと気が付いた。
「術? そうか。あれで長距離飛べれば、目的地まで帰るのなんてすぐだね」
 おおー。と素直に感心していたら、拓也の顔が一瞬翳った。
「早く、思い出せ」
 小さくぽつりとつぶやかれる言葉。その声に反応して、真っ直ぐ彼を見つめてしまう。
 拓也はそんな私の視線を受け止めて、さらに挑発するかのようにもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「早く思い出せよ」
 しばらく二人無言のままで、ただ視線だけが絡み合う。
「そのうちね」
 私はふっと息を吐き出すと、わざとにやりと微笑んだ。厳しい表情をしていた拓也が呆気に取られ、口が一瞬ぽかんと開く。
 王子の間抜けな顔というのも、レアで良いかも。
 そんなずれたことを考えながら、しばらく彼の顔を観察した。呆れたままでお終いになってしまうかな? 表面は強気な態度を崩さなかったけれど、内面ではかなりの緊張だ。
「……なんだよ、そのひねくれた言葉」
 ふいに拓也の表情が変化して、私と同じようなにやりとした笑みになる。その口調に、自分の賭けが成功したのを知った。
「ひねくれてなんか、無いよ。無理しないって決めただけ」
 言いながら、私の口元に強気ではない微笑が浮かんできた。
 そう。焦ったり、無理して記憶を取り戻そうとはしない。私が本当にアクタなら、いつか必ず思い出す日が来る。そう信じているから。
「大体、ひねた性格してるのは、三人の方じゃん」
「自分を外すな。真子も同じだ」
「ひっどいなぁ」
「あのさ、どっちがひどいこと言っているのか、分かっている?」
 ここにいたって、ジハンがこらえきれないといった様子でふき出した。
「あー、ジハン。今、どっちもどっちだって思ったでしょ」
「何も言ってませんよ、私は」
 軽口叩き合って、笑い合って。そして荷台を抜ける風とがたごと揺れる感覚に、目を細めた。
「さあ。チャガンを捜しに、旅をまた始めよう」
 声に出して言ってみて、私の中でまた気持ちが湧き立った。



-第二章 終わり-