遠い記憶

4.月の章


その2


 ダド商会ではエッガイが待ち構えていて、熱烈な歓迎の後、山登りの準備を進めてくれた。
 
 まず牛車を一頭立てにかえ、牛のゴクと馬のゴク、マゴクをダド商会に預ける。代わりに登山用の馬を三頭借り受けた。牛車が小さくなった分、荷台に乗り込めるのは御者以外には一人だけ。単純な足し引きで、馬が一頭増えたんだ。
「初代の宝玉廟までなら、徒歩でも半日で行けるけどね」
 てきぱきと馬装を手伝ってくれながら、エッガイが教えてくれる。
「真子達みたいに遠くから複数で来る人、それだけじゃ物足りない。他の宝玉廟もきちんと巡礼するから何日もかかるし、どうしても馬必要ね」
 初代の宝玉廟というのは、このホータンウイリクで初めて奉った玉が発掘された場所のこと。そこでオボ山の精霊夫婦に対し祈りをささげるというのが、いわゆる新婚旅行の定番コースらしい。
 これは夫婦だけのパウジュー、「巡礼さん」に多い省略パターン。
 遠い村や各地区の代表として団体で巡礼している人たちは、それ以外の宝玉廟巡礼も付いた本格コースを選ぶのが多いのだそう。そんな話も教えてくれ、エッガイは私達を見送ってくれた。


「なんか、観光地って感じがするよね」
 馬への指示に気を配りつつ、私以外の乗馬組、拓也とヒコに話しかける。
 なだらかな勾配、時折通りかかる巡礼者たち。午前中のまだきつくない日差しと相まって、のんびりとした空気が漂っていた。
「今のうちだからな。ここは準備段階の、いわばハイキングコース」
 ヒコの声に、そっかと答える。確かに前方に目をやると、この丘を越えたすぐ先に山がそびえている。そこが本当の巡礼コース入り口なのかもしれない。
「でも私達、素直に巡礼するわけではないんでしょ? 目的はあくまでもチャガンと、それを持っているドゥーレンを探すことなんだし。ドゥーレンは私達の動向に、ちゃんと気付いているのかな」
「あいつなら、大丈夫だよ」
 静かに、でも確信を持った拓也の言葉に、私はしばらく彼の横顔を見つめてしまった。
 ヒコから以前少しだけ聞いてしまった彼の前世の話。幼少時に餓死寸前だったところを拾われ、その術士としての能力の高さゆえ斎宮で保護されて、最終的に玉の造り手にまで登りつめた。当時のキョエンの斎宮のことを一番良く知っている人、サイムジン・ハング。
 そんな彼がチャガンを託し、生まれ変わり、十八年経った今でも信頼をしている人物がドゥーレン。一体どんな人、どんな術士なんだろう。
「ドゥーレンなら、すでに俺達がホータンウイリク入りをしたことくらい分かっているさ。じゃあそれなら、どこに行けばいいのか? それを考えればいい。俺達と確実に合流できる場所は、どこだ?」
 なぞなぞのようなヒコの問い掛けに、自分がドゥーレンだったらと考える。
 術士達の内部分裂により、崩壊してゆくキョエンの斎場。密かに自分に託されてしまう、次代の玉。囮となり、戦いのあげくに殺されてゆく玉の造り手達。そういうものを背負って、ひたすら逃げ延びる毎日。十八年後、いよいよ自分の役目、チャガンをキョエンに戻すために先ず彼が向かう先は、
「チャガンを発掘した、場所?」
「あたり」
 うなずいて、にやりとヒコが笑う。
 キョエンという本来寄るべき場所を無くし、十八年間彷徨い続けている仲間と合流するために考えられる場所。やっぱりそこしかない。あるべき姿に戻すため、私達の玉を掘り出し造り上げた場所で待ち合わせる。
「宝玉廟って、玉を発掘した場所にモニュメント建てた施設のことをいうんだよね。それって、ホータンウイリクの玉以外でも有りなの?」
「有りだし、それこそ三百年前の例の勇者ケレイトが擁立させたドワンなんて、オボ山の中でも有名な廟だよ。俺達も、チャガン発掘前はそこへ寄った」
「そうなんだ」
 前世の私達の行動。思い出せない、記憶部分。
 ヒコに語られて、なぜかびくりとしてしまった。
「ただ、チャガンはまだ正式にキョエンの玉とはされていないから、宝玉廟は建てられていない。場所も俺達以外は知りようが無い」
「そんなので、ドゥーレンは来ることができるの?」
 場所も分からないのに、大丈夫? 不安になって聞き返すと、ヒコは軽く笑って肩をすくめた。
「俺達がそこで造ったのがチャガンだぜ。あいつがチャガンを手放さない限り、玉自身が導くはずだよ」
「あ、そうなんだ……」
 当たり前のように答えられ、なんだか恥ずかしくなって声が小さくなる。でもやっぱり「玉が導く」というのが分からなかった。ジョエが人となって私達と交流しているのと同じように、チャガンも普段の見た目は人なんだろうか。
「チャガンはどんな見た目をしているの?」
「見た目って、……白いよ。白乳色の、大きさでいったらわりと小ぶり。野球ボールくらいかな」
「えっと、そっちじゃなくって」
 聞きたいことが上手く聞けていないから、ずれていく。って、ああそうか。素直に「チャガンも人の格好をしているの?」って聞けばよかったのか。
「チャガンはまだ正式な玉ではないから、化身にはなれないんだ。白乳色の石のまま。もちろん人格を持って会話をすることもない。ただ、それ以外の力は持っているから、どのような形でもドゥーレンを導いて自分が生まれた場所に戻ることはできると思う」
「……ありがとう、拓也」
 教えてもらってほっとして、でも拓也を真っ直ぐ見ることが出来なくて、手綱を握りなおす振りをして目を反らした。ああ、駄目だ。
 そもそも圧倒的に知識が足りていないんだよね。本当だったら、覚えていなければいけない基礎知識。私の記憶さえあればいちいち訊ねなくても分かる部分。私が、思い出しさえしていれば……。
 「思い出してない」ってことが、ひどく後ろめたく感じられた。そのまま会話は途切れ、無言で歩みを進める。

 丘を越えると、山道へと踏み込んだ。
 左側が山の斜面となっていて、背の低い潅木がところどころに生えている。それ以外は、荒い岩がごろごろとしているばかり。地震とかあったら、あっという間に地滑りが起こりそう。
 それでもまだ道は日々通る巡礼者達で踏み固められていて、気をつけてさえいれば初心者でも馬を操ることができた。
「真子、美幸と代われよ」
 ヒコにそう声を掛けられて、慌てて首を振る。
「これからどんどん足場が悪くなるんでしょ? 今のうちに山道に慣れておきたいから」
 そう主張する私に、ヒコが困ったような顔で拓也をちらりと見る。
「どうする、拓也?」
「いいよ。ヒコが牛車に入ってくれ。真子、次は交代だから」
「了解」
 感謝の代わりに素直にうなずいてみせた。
 ちょっと強引だったかな? けれど、自分の考えは合っているはず。だってここで慣れておかないと、下手したらずっと牛車に乗ることになってしまうし、そんな特別扱いはごめんだ。少しでもみんなと対等に旅を続けていたい。
「真子」
 美幸を先に行かせると、すっと拓也が横に並んだ。
「なに?」
「真子はアクタだよ。たとえ記憶が戻らなくても。俺がそう信じているから、だから焦らなくていい」
 落ち着いた声。真っ直ぐな瞳。ダイレクトに伝わる拓也の気持ち、思いやり。
 焦らなくても、いい。
 その言葉に、瞬間的に頬がかっと熱くなった。優しさに満ちている分、自分の頑張りがただの意地として受け止められていることに気付かされる。まるで私、ただの駄々っ子のようだ。
「……そんなんじゃ、ないよ」
 つぶやく声は小さくて、拓也が「え?」と聞き返す。でも同じ言葉は繰り返したくなくて、そもそもどう反論したらいいのかも分からなくて、黙り込んだ。
 ちょうどタイミングよく道が細くなり、並んで歩いていた拓也の馬を先に行かせる。その後姿を見送りながら、気持ちを切り替えるように息を吐き出した。
 見つめるのは拓也ではなく、先に進む馬達の足元。足場の悪いところは無いか注意して、いつでも自分の馬に指示を出せるようにしよう。
 そんな決意とは裏腹に、しばらくすると自然に手綱が右によってしまうことに気が付いた。理由は、左側の斜面。
「怖がっているのかな、私」
 自分の小心ぶりに苦笑したら、後ろの牛車から歌が聞こえてきた。ジハンの歌声だった。
 初めての山道にいっぱいいっぱいの私と、のんびり歌を歌うだけの余裕があるジハン。どうしようもないその差に落ち込みそうになるけれど、こんなことで気にしていたら駄目だ。自分を励ますつもりで背筋を正したら、つまづいたわけでもないのにぐらりと揺れた。
「あ、腹帯」
 鞍の位置がずれたんだ。そういえば、さっきヒコに交代しようって言われたとき、断るのに気をとられて馬の腹帯を締めなおすのを忘れていた。
「ごめん、ちょっと……」
 声を上げようとして、でも踏ん切りがつかなくて、言葉は途切れてしまった。前方の拓也は気付いた様子も無い。
 自分の不注意のせいで、みんなの歩みを止めてしまう。
 それが嫌で、迷いながら辺りを見回した。道の左側が斜面になっているとはいえ、まだ坂はそれほどきつくなく、手綱さえぶれなければ馬は勝手に真っ直ぐ進んでくれる。鞍のずれもたいしたことはないし、今この状態でゆるんだ腹帯さえ締め直せば問題ない。
 歩きながら、腹帯を締めればいいんだよね。
 決心して、視線を自分の右足側に落とした。鐙(あぶみ)の横に見える鞍から出ているベルト、それが腹帯。馬の歩調にあわせながら、右の前脚が降りた瞬間を狙ってかがみこむ。
 ベルトを一気に掴んで持ち上げようとした途端、ひゅっとなにか風を切る音がした。そして、とすっという軽い衝撃。
「え?」
 かがみこんだまま顔だけ上げると、目の前の馬の首に矢が突き刺さっていた。馬のいななきが大きく聞こえ、そのままのけぞるように上体が反らされる。
「真子!」
 拓也の叫び声。でもそれに応える余裕は無くて、私は叫びながら反射的に持っている手綱を握り締めてしまった。
「手綱を引くな!」
 引けばよりいっそう馬の上体が反らされて、バランスを崩してしまう。
 思い出して、あっと思ったときは遅かった。
「わぁっ!」
「真子!」
 振り落とされて、体が宙を舞う。
 まるでスローモーションのように、拓也が大きく手を伸ばすのが見えた。その手を掴もうとして、でも衝撃と共に地面にたたきつけられて、そのままごろごろと回転する。
 天と地が一緒くたになって、自分が斜面から転がり落ちていることを知った。
 口に砂が入り、肺から空気が抜けるほど、悲鳴を上げる。体中のいたるところに振動が響いて、ばらばらになるんじゃないかと思ったら、ぐらりとめまいを感じた。
 違う。
 これは、この強制的に力が抜ける感じは、……瞬間移動!
 拓也が助けてくれたのかと期待して、すぐにその気持ちはかき消える。
 違うんだ。このぞわりとするような不快感。拓也とは違う力で引き込まれている。
「ゃあー! 拓也ーっ!」
 叫んだはずの声は、自分の体ごとこの場から消えていった。


 うっすらと目を開けると、青空が見えた。そしてそれを覆い隠すような木々。
 森の中に、突っ込んだみたい。
「痛い……」
 どこかぼんやりしながらつぶやいた。息をするたび、うずくような痛みがする。けれどショックのせいなのか、それとも術を使われた後の脱力感からなのか、痛みに現実味を感じない。まだ、体の痛みに神経が追いついていないようだ。
「ほう。生きていたか」
 がさっと草木を踏む音がして、私の頭上で声が聞こえた。
 のぞき込む顔が見え、まじまじと見つめ返す。
 金髪、碧眼。この世界では見たことのない人種。ううん、違う。最近見た。
 鋭いまなざし、皮肉そうに上がった口元。狼のような印象の、この男。
 思い出した途端、誰が自分を馬から振り落とし、この場所まで引き込んだのかを理解した。
「あの高さから落としたからな。正直、期待はしていなかったが、さすがは術士というところか」
 感情のともなわない声で男は淡々と言うと、その声を低く落とす。
「俺の名前を、言ってみろ」
「い、や……」
 ささやかな抵抗は当たり前のように無視された。ぐらりとした感覚がまた沸き起こり、自分の口から強制的に男の名前がこぼれ落ちる。
「……アエスティイ……ウェル……カッシ」
 息をするたび肺や背骨の存在を感じるような痛みが起こる。少しずつ、自分の体になにが起こったのかを脳が理解していくみたい。痛みがリアルに感じられてきた。
 痛い、痛い、痛い。
 それなのに、途切れ途切れにでも彼の名前を言おうとしている。浅く吐き出す肺の動きに合わせて響く辛さに、なにも考えられなくなってゆく。
 男の、彼の名前を最後まで言えば、この苦しみから逃れられるんだろうか。
「ウェラ……ウヌス・アル……」
 後もう少しで言い終わる。その時、胸の奥でぼうっと暖かな光がともった気がした。
 これは、……光。羽根。ジョエの、羽根だ。
 はっとして、急に焦点が合ったような気がした。これ以上、名前を口に出しちゃ駄目だ!
「その光は、なんだ」
 ピクリと眉が動き、初めて男の顔に苛立つ表情が表れた。
「知、らない……」
 精一杯の虚勢を張って、しらをきる。男はそんな私を見据えると、皮肉そうな口元をさらに上げた。
「抵抗しても無駄だ。俺はお前に呪術を掛けた。隷属の呪をな。それは魂に刻み込まれ、そうそう消えるものではない。俺の問いにお前は答えるしかない」
 あの呪術を甘く見てはいけません。
 ジョエの言葉を思い出す。確かにその通りだ。名前を強制的に言わせただけじゃない。この男は弱気になった私の心から闇を感じ取り、私を探し当てたんだ。
「お前を俺の呪術から隠したのはその光だ。その光は玉でしか得られない。なぜ玉の力をそのように分け与えることができる?」
「……知らない」
 虚勢でもなんでもなく、素直に答えた。
 ホータンウイリクの玉の精ジョエが当たり前のように行い、みんなも疑問を持たずに受け止める行為。これを不思議に思うということは、この男のいる西大陸エルムダウリの玉は行わないということなんだろうか。
 けれどもちろん、男がそんな答えに満足するわけがない。獰猛な瞳はより険しさを増し、低い声で宣言をされた。
「呪術の効きが弱いのならば、お前の名を聞いてやろう」
「名前……?」
「喜べ。俺が名を聞くことはそうそう無いぞ」
 上向きのまま、歪む口元。深くなる鼻のしわ。そんな顔の動きで、この男が笑っていることに気が付く。決して目が笑うことのない、表情筋だけで作る男の笑み。
「言え」
「私の、名前……」
 引きずりこまれる。まるで催眠術にかかったかのように。ゆっくりと口を開いて、でも声が出なかった。
 私。私の名前。私は、

 アクタだよ。

「アク、タ」

 たとえ記憶が戻らなくても。俺がそう信じているから。
 
 拓也の、真っ直ぐな瞳。
 ああそうだ。私はこの世界では、アクタなんだ。
「……私の名前は、アクタ・ケレイトア」
 名乗った途端、充実感が広がった。成田真子じゃない、ここにいるのはアクタ・ケレイトア。
 嬉しくて、ほっとして、一つのことをやり遂げたような気持ちにすらなったのに、男はただ黙って私を見つめるだけだった。そしてのどの奥で、くっと笑う。
「玉の力というのは素晴らしいものだな。俺の呪術を跳ね返し、あまつさえ嘘の名前を教えようとする」
「なにを……」
 反射的に起き上がろうとして、体に力が入らず、そして全身を襲う痛みにうめいてしまった。
 嘘の名前。違う。これは、私の名前。
「私は、アクタ・ケレイトア。他の名なんて、ない」
「ならばなぜ、お前は俺の目を見つめ返す? あくまでも俺と対等でいようとするがゆえの態度だろう」
「な、に?」
 意味が分からない。
「名とは魂だ。お前の名前を聞くことにより、俺はお前の魂を縛り上げる。それが今出来ないのは、お前が自らをあらわす名を告げていないからだ」
「……嘘だ」
 アクタだよ。
 拓也の顔を、安心させるように微笑むその顔を思い出す。
「名を告げぬよう、自ら術でも掛けたのか。面倒な」
 短い舌打ち。男は私に覆いかぶさり、手のひらをすっと目の前でかざした。
「嘘だ」
 たとえ記憶が戻らなくても。俺がそう信じているから。
「もらうぞ、お前のその光」
 私は、アクタ・ケレイトアではなかったの?
 アクタだよ。
「嘘だーっ!」
 胸の痛みなんて関係ない。力いっぱい叫んだら、体中に光があふれたようになった。自分ではない、外の景色がぐらりと揺れたようになる。
「結界が」
 すばやく顔を上げた男が、忌々しそうに短くつぶやく。ざあっと、風が森を抜けてゆく音が聞こえた。
 遠くから鳥の鳴き声。今まで忘れていた音が、流れ込む。
 「うわっ、なに? どうしたんですか? あなた方はっ?」
 荷物が落ちるらしき音と、知らない男の人の声。そちらに顔を向けようとして、目の前の男の表情にはっとした。
「逃げて!」
 この男に、殺される。
「無駄だ」
 男の冷静な声。狙いを構えようとする動き。
 想像する最悪の事態に息を呑むけれど、その瞬間、なにかぶつかる音がして男の体が大きく揺らいだ。
「大丈夫ですか?」
 言葉と共に、知らない男の人に担ぎ上げられる。
 エッガイに似た、彫りの深い顔立ち。浅黒い肌。ホータンウイリクの地元らしき人。
 一方、見下ろす形となった男は地面に片膝を立て、こちらを睨み付けていた。
 いくら油断をしていたからといって、この男が体当たりされたくらいでここまでダメージを受けるとは考えられない。術を、使われたんだ。この地元の人に。
 私を担ぎ上げたまましっかりと立っている地元の人を見上げ、そしてまた慌てて男に視線を戻す。今まで私をさげすむように見ていた男の顔つきが、変化していた。ぎりぎりと、弓を絞るような緊張感が発せられる。
 このままでは、殺される。
 男からの明確な殺意に息を呑み、そしてその振動で激痛が走った。
「痛っ……!」
「ごめんなさい。少し辛抱して」
 地元の人はそう言って私に微笑むと、足元の男に視線を移す。
「えっと」
 この場の雰囲気にはそぐわない、のんびりとした声。そして
「なんだか良く分からないけど、逃げます」
 え?
 宣言をした途端、視界がぐらりと揺れた。
 

 瞬間移動で到着した場所はさっきからあまり離れていないようで、やはり森の中だった。
「ハク!」
 男の人が誰かを呼ぶ。近づく足音と人の気配にそちらを向こうとするのだけれど、度重なる力を使っての移動と怪我の痛みに、意識が遠のきかけている。
「しっかりして」
 耳元でささやかれ、地面にゆっくりと下ろされた。軽く頬をはたかれ、いつの間にか閉じかけていたまぶたを開ける。
「私の名前は、ツォーホル。この山で修行をしている者です。事情も分からずあの場からあなたを連れ去ってしまいましたが、それで良かったですか?」
「い、いです……。助かり、ました」
 なんとかそう答えると、ツォーホルはにっこりと笑った。
「まだ助け終えてはいませんよ。お礼は、その怪我を治してから聞きましょう。さあ、もういいです。目を閉じて」
 言われるまま目をつむけれど、その直前にツォーホルが私の胸に手をかざすのが見えた。
「ああ、肋骨が二本折れていますね。ほかには全身くまなく、打撲と擦り傷」
 まるでお医者さんのようだけれど、触診をするわけではない。これも術士の力なんだろうか。
「ツォーホル」
 誰かが彼を呼ぶ声がする。子供の声? でもすでに私には、二番目の人物を気にする気力は残っていなかった。
 ツォーホルは相手に向かってなにか一言二言話すけれど、術を使っていないらしく聞き取れない。それからまた私に向かって語りかける。
「生きているものはみな、自らを治癒する力というものを持っています。あなたの体はこれからその治癒力を使って、怪我を治すことにのみ専念します」
 ゆったりとした口調。やわらかくて深みのある声音。それを聞くうちに自然と力が抜けてゆく。
「体が怪我を治している間、あなたは自分の治癒力を信じて、眠りなさい。さあ、気持ちを楽にして。余計なことは考えないで」

 眠りなさい。
 眠りなさい。余計なことは考えないで。

 その言葉に導かれて、私は残っていた意識を手放した。