遠い記憶
3.鳥の章
その10
結局この日はそのまま宮殿に留まり、オボ山探索の準備は明日にしようということになった。エルムダウリが侵入しているのが判明した今、少しでも早くチャガンを見つけたいというのが本当のところ。でも、時間が中途半端すぎたんだ。
朝一で北の関所に行き、ジョエに出会い、偵察をし、見つかって呪を掛けられてホータンウイリク宮に戻り、乱闘になり、シャータの部屋へ行った。ここで一段落がついたのが、なんだかんだでもう昼過ぎ。これから準備をしても夕方になってしまうし、そもそも私たちの荷物を預かっているエッガイが、街にはまだ戻ってきていないはず。
夕方、エッガイが戻ってくるころを見計らって、拓也と二人でダド商会へ行くことにした。そこで仲間と合流したこと、明日からみんなでオボ山に行くことを伝える。後はもう、明日に向けて英気を養い、体を休めるだけ。確かに午前中だけでいろんな目にあっていた私には、多少の休憩を取る必要があった。
「真子、ちょっと散歩してみない?」
美幸が宿舎に戻ってくるなり、そう声を掛けてきた。ジハンと二人、今まで昼食も別にして、シャータ達との打ち合わせに出ていたんだ。
「行く、行く。どこまで?」
私の方はといえば、直前まで軽く横になっていたせいかすっかり体調も戻っている。
「ここの敷地内よ。案内したいところがあるの」
気楽な彼女の様子にうんとうなずき、外に出た。一応宿舎の表には衛兵が二人立っているのだけれど、今までと違い、客人の警護という態度に変わっている。一声掛けるだけで自由に外へ散歩できるのって、素晴らしい。
そのままのんびりと宮殿の裏手へと向かい、建物と一体化したような山を登ってゆく。遠目で見るとそれなりに緑に覆われた景色。でも日本に比べてこの世界の湿度は低い。今歩いている一帯は背の低い潅木がまばらに生える程度で、この乾いた気候にふさわしく、乾いた景色となっていた。
ゆるゆると登るにつれ、さらに潅木の数が減り、岩肌が露出してゆく。にこやかにしながらも決して自分から話そうとしない美幸に合わせ黙っているうち、単なる散歩とは違う何かを感じ始めていた。
ちり一つ無い、きれいに掃き清められた小道。生活臭のする路というよりは、手入れされた庭園を思わせる。けれど見えるのは、荒涼とした岩肌ばかり。
この静謐とした雰囲気に、年に一度は参る場所を思い出す。あれはママのお墓のある場所。道の行き当たり、鉄柵で囲われた場所は、明らかに私の思い出す場所と同じ空気をかもしていた。
「美幸、ここは?」
正面の門扉には警備兵が一人詰めている。事前に連絡が行っていたのか、特に私達を警戒する様子もない。柵は単なる境界線で、その隙間からごく普通に向こう側を眺めることが出来た。
「墓地よ。歴代のエシゲ家のお墓」
「ここ、が……?」
想像する場所とは合っていたけれど、自分の知っている様子との違いに戸惑って聞き返す。
墓地、と言いながらも目の前に広がるのはただの荒れた山の斜面。墓石など何もない。ただ、地面にはやたらに白い石が転がっていた。
「あれ、よく見てみると分かると思うけれど、骨よ」
「骨っ?」
「ここはエシゲ家にのみ許された、鳥葬の場所なの」
そう言うと、美幸はゆっくりと前方を見回した。
「ご存知の通り、エシゲ家にとって鳥は大切なモチーフなの。人は死んだらその肉体を鳥に与え、魂を鳥に乗せ、自由に野山を駆け巡る。そしていつかまた人に生まれ変わるのよ」
「だから、鳥葬なんだ……」
「基本的に、こちらの世界では火葬はしないわね。ホータンウイリクでは鳥葬で、キョエンの辺り、そしてケレイト族でも基本は土葬だったり風葬だったりするし」
なんでだろうと疑問が生まれたけれど、この景色にすぐに答えを思いつく。草原や砂漠だと、遺体を燃やすだけの木材を確保するのも難しそうだ。
でも正解を確認する間も無く、次の美幸の言葉に新たな疑問が生まれた。
「私達はね、遺体を焼かれたの」
「……なんで?」
「罪人だから。偽の玉を用い、キョエンを操ろうとしたという大罪を問われ、乱闘の末に討ち取られたから。そして最後に転生が出来ないように、首は落とされ、遺体を焼かれた」
淡々と説明する美幸の顔を、ただ眺めていた。輪廻転生の思想があるからこそ、あえて行われた火葬。そのはっきりとした負の意思に、何も言葉が返せない。
美幸はこちらを振り向くと、口も開けずに固まったままの私を見て、苦笑した。
「前に聞いたでしょ? なんでこちらの世界で生まれ変わらなかったのかなって。これが答え。私達は、こちらの世界で生まれ変わることが出来ないよう、いわば呪を掛けられた」
「だから、別の世界で転生するしかなかった……」
「異世界からやって来る人はたまにいたの。御伽噺くらいの頻度ではね。多分私達、賭けに出たのね。さすがに殺されてから生まれ変わるまでの記憶って無くて、推測にしか過ぎないのだけれど」
そこで言葉を切ると、美幸はまた視線を戻し、荒野を見渡した。その表情は穏やかで、優しい。私はしばらく美幸を見つめると、ためらいがちに声を掛けた。
「私、ナムニって呼んだ方が良い?」
初めて会った時の美幸のことを思い出していた。
見た目の可愛らしさから想像できないきつい口調。インパクトの強さからそっちの印象ばかりが残っていたけれど、あの時美幸は確かに私を歓迎してくれていたんだ。
遅かったじゃない、アクタ。
今なら分かる、エシゲ・ポンボ・ナムニとしての、精一杯の親愛の言葉。前世、唯一名前を呼び合える友達だったアクタに向けた、喜びの言葉。でも私がそれを汲み取ることは出来なくて、この目の前の女の子がナムニであることを否定した。
わざわざ前世の名前で呼ばれるのって、実感がわかないよ。
それ以来、私の名前は成田真子で、彼女の名前は小笠原美幸だ。
けれど私の後悔から来る気遣いは、美幸の笑い声に一蹴された。
「真子、それは今更だわ」
容赦無い言葉に一瞬息が詰まる。でも放った本人の明るい表情に、息を吐いた。
「ジョエに感動されて、あらためて思ったの。私達って、この世界で転生できないように呪を掛けられたにもかかわらず、それならって別の世界で生まれ変わって、こっちに戻ってきてしまったのよ。これ、凄いことだと思わない?」
「あ、うん。確かに」
「そんな凄いことして戻ってきているのに、昔の記憶が有るとか無いとか、そんなに重要なことなのかな。記憶を無くしても、戻る意思は失わずに真子はここに戻ってきた。奇跡のようだわ」
ふふっともう一度笑うと、美幸は私と向き合った。
「ナムニだったころの思い出を忘れられているのって、正直むかつくときもあるのだけれどね。でもナムニと今の美幸、どちらの私にも、真子は真っ直ぐに接して友達になってくれた。二度体験できたのだから、そのくらいのことはチャラにしても良いかなと思ったの」
その堂々とした言い方に流されそうになるけれど、むかつくとかチャラにしても良いとか、かなり言いたい放題だ。でもそんなところがとても美幸らしくて、笑いがこみ上げてしまう。
そうして余分な気負いが無くなったところで、自分の気持ちに気が付いた。
「私は、思い出したいよ。美幸にとっては二度目の体験でも、私にとって美幸との出会いは初めてだもの。最初の、アクタのころの私達を思い出したい」
私の言葉に美幸は目を細め、つぶやいた。
「真子、……変わったね」
「そう、かな」
「うん。今までは置かれた状況から、いわば追い詰められた状態で、思いださなくちゃって気持ちでいたでしょう? それが今、思い出したいって自発的なものに変わっている」
「そう言われれば」
指摘され、初めて自分の気持ちの変化に気が付く。そのまま心の中での回想シーンに浸りそうになった瞬間、次の言葉にストップがかかった。
「昨日、拓也と何かあった?」
「ええっ、そこ?」
ポイントはそこなの?
急に体温が上がった気がし、動揺したまま美幸を見つめる。目の前の友は、獲物を見つけた肉食動物のような目つきをしていた。美幸が猫で、私がネズミ。今までの優しい空気はどこに行った。
「午前の帰還の時から突っ込みたかったのよね。拓也は変わらないんだけれど、真子が妙に意識しちゃっているから。どうせ奴のことなんだから、帰国子女お得意のお手並みで、無自覚になんかしてたんだとふんでいるんだけど。どうなのよ、真子」
確かに拓也に、何かをやらかしたという自覚は無い。
腰に手を回していたのも私を支えるためだったし、キスをしたのだって、羽を口移しで飲ませるためだったし。って、口移し! そのほうが凄くないか? 凄くないかっ?
「真子ぉー、聞こえてるー?」
「き、聞こえてる。大丈夫」
どこかに瞬間移動をしたわけでもないのに、力が抜けそうになって柵をつかんだ。まずいくらいに顔が火照る。ちらりと美幸を横目で見ると、期待にあふれた表情でこちらを見ていた。
いやでもちょっと、冷静になろう。私が拓也を意識したのは、あの夢のせいだ。あの夢。私が殺される、夢。
「思い出したんだ、私。自分の最後を」
すっと、心のざわめきがおさまってゆく。
「私の隣で戦う人がいて、その人をかばって敵に討たれたの。色の無い、音の無い世界だったけれど、彼が必死になって私に呼びかける顔を覚えている。あれ、サイムジンだよね」
「真子……」
「ごめんね、美幸。その部分だけだから、ナムニのこと、まだ思い出せていない。それどころかジンのことだって」
そこまで言って、中途半端に言葉を切った。サイムジン。私の、愛おしい人。私の命を掛けて、守った人。
「あの、さ」
どきどきしながら、美幸を見つめる。
「アクタとジンって」
どういう関係だったの?
そう聞きたかったのに、美幸はゆっくりと首を振り、私が最後まで言うのを許さなかった。
「自力で思い出すところよ、そこは」
きっぱりと言った後に、にやりと笑う。ああ、この線引きの仕方。ヒコに通じるものがある。
「努力します」
そう返事をして、息を吐いた。意識して気を抜かないと、すぐに暴走してしまいそうだ。
美幸はそんな私を眺めると手を伸ばし、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。慰めてくれたのかな。でもこの仕草、拓也の真似をしている気もする。
そんなことをちらりと思った瞬間、美幸にまた口元だけで笑われてしまった。
「真子の知っている範囲で言うと、その光景、かなり拓也のトラウマになっているところだからね。とりあえずそこは思い出したってことは、拓也に言っておいても損は無いと思うわよ。お互いのためにも」
「そうだね」
同意をすると、伸びをして肩の力を抜いた。ついでに首を回して、ストレッチ。
「そろそろ戻ろうか」
笑いを残したままの表情で、美幸が鉄柵から離れてゆく。
「え、もういいの?」
お墓参りなんだとしたら、もうちょっと何かしていったほうが良いんじゃないのかな。
慌てて声を掛けると、美幸はもう一度荒野を眺め、うなずいた。
「うん。もういいの」
その表情は、さっきジョエに対して見せた、あの穏やかなものと同じだった。
夕刻を見計らって拓也と一緒にダド商会を訪ねると、ちょうどエッガイが戻ってきたところだった。
仲間と合流できたこと、明日オボ山へ向かうことを告げて、打ち合わせをする。みなさんどうぞと夕飯に招待されたけれど、先約があるのでと丁寧に断って城へと戻った。
先約、つまりはシャータとイーシィの二人にご招待をされているわけなんだけれど、最初の謁見のときみたいにお付の人が何人もいるとやりにくいよね、なんて話しながら馬を操る。もちろん私が乗っているのはマゴク。二日ぶりの対面に、マゴクもゴグも嬉しそうに鼻をすり寄せてきてくれたんだ。それだけでなんだかじんわりと涙が出てきそうになったのは、拓也には内緒。
とはいえやはり勾配のある道で岩なんかが転がっていると、二頭も歩きにくそう。やっぱりその土地土地の馬を使うって重要なんだなあと実感していると、後ろから拓也に呼びかけられた。
「真子、マゴクの腹帯が緩んでいる」
「え、うわ、本当だ」
慌てて止めると、マゴクに乗ったままかがみこむ。鞍の下から出ているベルトに手を掛けると、それをぐっと引き上げた。鞍を馬体に固定させる、これが腹帯。
乗る前の装具をつける段階で、腹帯はちょっときつめに締められる。そうしないとすぐに鞍がずれてしまって、へたすると鞍ごと横滑りに落馬してしまうからだ。しかし実際に動き出してしまえば、どうしても帯は緩んでくる。人ひとり分の体重が鞍に乗るのだしね。上級者になればすぐに緩みに気が付いてすばやく腹帯を締め直すことも出来るけれど、私はまだまごついてしまう。今だって、足場の悪い道に集中するあまり、マゴクの腹帯が緩んでいることに気付いてすらいなかった。どうりで乗りにくかったわけだ。
「鞍がちょっとずれている。いったん降りて締め直したほうがいいな」
「了解」
拓也に駄目だしされ、うなずいて道の端に寄った。マゴクから降りると、拓也から教えられた手順で馬装の点検をする。こちらに来てから一ヶ月とちょっと。毎日こなしているうちにずいぶんと手馴れてきた。けれど乗馬の師匠である拓也に最後のチェックをしてもらうときは、やっぱり多少は緊張してしまう。
「うん、いいよ。これでさっきより安定する」
その言葉にほっとして、自然に笑みが浮かんだ。
「ありがとう。やっぱり拓也がいないと駄目だ。一人じゃ馬に乗れないね」
「一人で馬乗って出かけるくらいのレベルにさせるって、最初に美幸が言っていただろ」
「なるのかな、私?」
「半日くらいなら大丈夫じゃないかな。一人にさせていないだけで」
そう言って、頭をぽんと撫でられる。その仕草に、先程の美幸とのやり取りがよみがえった。
思い出したってことは、拓也に言っておいても損は無い、って。今がその、チャンスなんだろうか。
考えた途端、一気に動悸が早くなる。緊張感に胃が持ち上がるような気がして、慌てて息を吐き出した。覚悟を決め、口を開く。でも話しかける直前に、拓也の声が被さった。
「さっきは、ごめん」
「えっ? 何が」
戸惑ったまま、拓也を見つめる。私の視線を受け止めると、拓也は困ったような表情をして少し早口に言葉を重ねた。
「非常事態とはいえ、あんなことして。真子にしてみれば無かったことにはできないだろうから、謝っておきたかったんだ。……ごめん」
言いながら拓也の視線は私からずれ、顔が赤く染まってゆく。
「あんなこと……?」
うっかり口に出してつぶやいてしまい、一気にこちらの顔も赤くなってしまった。あんなことって、決まっているじゃないか。何を聞き返しているんだ、私!
「ごめん」
私の思い切り動揺した顔を見て、拓也がもう一度謝る。やった本人がこんなに照れた表情を見せたら、やられたほうとしてはよりいっそういたたまれなくなる。普段こんな表情見せ無いのに、ちょっと卑怯じゃない?
「大丈夫。分かっているから」
あれはただの非常事態。
なんとか強がって言って見せたけど、そこまでが限界だった。耐え切れずに目を伏せて、手をぎゅっと握り締める。
やっぱり拓也に伝えたかった。最後の場面を思い出したこと。あの時私がこの人をかばって死ねたことが、どんなに幸せだったかということを。
「拓也。私ね、……思い出したの」
一歩踏み出したくて、自分の足元を見つめながらそれだけを先ず言った。
「拓也がサイムジンだった時のこと。私、あなたのことかばって」
話しながら勢いつけて顔を上げて、拓也を見上げた途端に言葉が途切れた。今まで逸らされていた瞳が、真っ直ぐに私を射抜いている。
「さっき、名前を呼んだ?」
気圧されてしまうほど真剣に、食い入るように見つめる目。
「名前……?」
何の話だか分からず混乱するけれど、すぐに思い出した。シャータの部屋の前、衛兵の剣が掠めたときにとっさに私が叫んだ名前、サイムジン。
「思い出した?」
低くかすれる声。
「……うん」
心を、鷲掴みされたみたいだと思った。真っ直ぐ、真っ直ぐ、拓也の目が、心が私の中に入ってくる。
静かに深く息を吐き出すと、拓也は一瞬迷うような表情をして、聞いてきた。
「触れても、いい?」
「うん」
そっと、細心の注意を払って私の頬に触れてくる。
まるで電気が流れるように、触れられた部分の感覚が鋭敏になった。流れてくるのは電気じゃなくて、拓也の想い。
「名前を呼ばれて、もしかしてと思って、すぐにそれは否定したんだ。都合のいい思い込みだって。けれど、出会えた。ようやく、出会えた。ずっと、……ずっと会いたかった、アクタ」
「うん」
言葉が出なくて、ただただ何度でもうなずいてしまう。拓也は、ううん、サイムジンは泣きそうな顔で微笑むと、そっと私に口付けた。非常事態なんかじゃない、心のこもったその仕草。
「サイムジン」
唇が離れて、たまらなくなって呼びかける。
分かってしまった。私達の関係を、言葉で問う気は失せてしまった。この人の目が、指が、唇が、私への気持ちを語ってくれている。
「うん」
短くうなずくと、サイムジンは急に荒々しく私を抱きしめた。どうしてよいか分からないように彼の手が私の背中をまさぐり、後頭部にたどり着くとそこで固定させる。顔を上げる状態になって、彼と目が合った。怖いくらいに真剣な目をしている。私の最愛の人。命を捨ててまで、私が守った人。
気が付けば、お互いむさぼるようなキスをしていた。言葉を発するよりも、触れ合うことで気持ちを伝え合いたかった。
思い出すって、再会するって、こんなに幸せなことだったんだ。
魂が触れ合う喜びにくらくらとする。
何度もきつく抱きしめて、キスをする。すっかり力が抜けてしまい、彼の体にもたれかかるようになったとき、唇がゆっくりと離れていった。
「あ……」
つい名残惜しくて声を出してしまい、その露骨さに恥ずかしくなる。ジンはくすりと笑うと、私の頬をそっと撫でた。
「これ以上続けていたら、抑える自信が無いんだけれど」
どうする?
耳元で囁かれ、腰のあたりがぞくりとして、逆に一気に我に返った。
「だっ、駄目! 早く帰んないとっ。夕飯にすでにもう遅れているし、私達!」
無理やり引き剥がすように、体を反らす。わたわたと焦る私をじっと見つめ、それから彼は息を吐き出した。
「残念」
ぼそりとつぶやく、その声の低さにびくりとする。けれど顔を上げた彼の口元に浮かぶのは、からかうような軽い笑み。直前までの真剣な気配は無い。
いつもの拓也に戻ってしまった。
半分だけ、そんな気持ちで寂しくなった。半分だけなのは、見慣れたいつもの拓也に戻ってくれて、どこかほっとする気持ちがあったから。彼からすれば、どちらも自分自身なことに変わりは無いのだろうけれど。
そういえば、まだすべてを思い出せていないってこと、拓也に伝えていない。
「ずいぶんふらついているけど、馬に乗れるか?」
聞かれて慌てて自分の思考を中断した。馬の座高はちょうど私の肩くらい。こんなに腰の定まっていない状態で、足を鐙(あぶみ)に乗せることが出来るのかどうかも怪しいところだ。
「支えるよ」
「結構です!」
なぜだか敬語になって、必死に断った。だって支えるって、腰! この状態でそんなとこ触られたら、確実に力が抜ける。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫!」
必死になって、マゴクによじ登る。おとなしくじっと耐えてくれたマゴクに、感謝。
拓也は面白そうにくすくす笑うと、ひらりとゴクにまたがった。
「聞きたいことも話したいことも沢山あるんだけど、今はとりあえず急ごうか。とっくに遅刻だ」
先を行く拓也の後に従い、歩を進める。彼の背中を見て嬉しい気持ちが浮かんできて、慌ててマゴクに神経を集中させた。いくら日のなかなか落ちない夏の宵とはいえ、ここで気を緩ませたら足場の悪さに落馬をしてしまう。そう戒めるのに、それでもやっぱり嬉しい気持ちは抑えられない。ふわふわと幸せな気持ちで、拓也の後を付いていった。
晩餐は私達の要望にこたえて、少人数で行ってくれた。ポンボ職のイーシィが、キョエンの術士である私達五人を内々で招いてのお夕飯。そこへたまたま顔を出し、ついでに同席してしまった宗主のシャータと「娘」のツェンバイ。ジョエもいたけれど、人間ではないから数には入れないんだって話だった。そういえば、ご飯口にしなかったしね、ジョエ。
これが宗主主催にしてしまうと、いくら内輪のお招きとはいえ、非公式と言う名の公式行事になってしまうらしい。何かと大変だ。
ともかくご飯は美味しくて、会話も始終和やかに弾み、のんびりとした気分で私達は宿舎に戻っていった。居間の絨毯敷きの床に座り込むと、クッションを背に、お茶を手にし、思い思いにくつろいだ格好になる。
「色々あったけれど、あの姉妹の仲の良いところを見ることが出来て、良かったよね」
満ち足りた気分でそう言ったら、拓也がふっと微笑んでくれた。その瞳の柔らかさにどきりとして、慌てて目をそらす。でもすぐに今の感じ悪かったかもと心配になって、そっと視線を戻した。あ、目が合った。
って、何やっているんだろう、私。
「本当、何やっているんだか」
「え、えっ?」
美幸のあまりにもタイムリーな独り言に焦っていると、ヒコが関係無く話を振ってきた。
「けど、一番の見ものは美幸だったよな」
わざと鬱陶しそうな表情をして、美幸がヒコをにらみつける。もちろんヒコがそんな程度で動じるはずも無い。
「幼児がエシゲ様に懐いて離れないなんて、想像すらしない光景だったよなー、なんて」
美幸の渋い表情も気にせず、からかうことを止めないヒコ。
そうなんだ。ツェンバイはよちよちと美幸の元へやってくると、そのまま抱きついて離れようともしなかった。決して子供好きとは思えない美幸の態度なのに、あの好かれよう。
「やはり、午前の出来事の印象が強かったんですよ。あの時、宗主とその子供を思いやってあげたのは、美幸だけでしたからね」
にこにこと微笑みながら、ジハンが断言する。なんだかとっても「お父さん」な発言だ。
「確かにあの緊迫した空気の中で、俺達はシャータを責めることばかりに意識を集中していたからな」
思い返しながらゆっくりと言う拓也を横目で見て、美幸が肩をすくめた。
「自分の姪っ子が変な方向に成長して、それをみんなで責めているんだもん。叔母として、その子供込みで色々と声掛けたくなるのは当然でしょ」
あえてなんでもないような表情を見せるけれど、視線はどうしてよいのか分からない様子で彷徨っている。美幸の照れたところというのも珍しいので、微笑みながらじっくりと見つめてしまった。
「でもやっぱり違うよね。美幸の声の掛け方ひとつで、その後のシャータの態度は変わったと思うんだ。私が同じ立場におかれても、あんな風には出来ない。こういう対応の上手いのって、人生の経験の差なのかな?」
「経験の差?」
「あ、前世での年数プラス今の年齢分、積み重ねてきた経験の差ね。今の年齢だけにすると私の方が多くなっちゃうから、それは無しで」
「真子の方が多いって、何が?」
疑問符だらけの表情で、ヒコが聞く。私としてはそこではなく、それぞれの経験について語ってもらいたかったんだけれど。うーん、と惜しい気持ちになったところで気が付いた。
「そういえば私、みんなと学年が違うって言っていなかったっけ?」
確認するように見回す。元々学校の観念がないジハンはともかく、残りの三人が何を言われているのか分からないという表情をしていた。
「私、予定日より一ヶ月以上早く産まれたの。しかも誕生日が三月二十八日でちょうど年度末だから、学年一つ上というわけ」
この話、なんでみんなにしなかったんだろうとぼんやり思い、すぐにその理由にたどり着いた。私がお腹にいるころから急に体調が悪くなりだした、ママ。出産する前から何度も入退院を繰り返して、大変だったって聞いた。結局その後も健康は戻ることなく、結局私が三歳になった頃、亡くなってしまった。自分の出生についてあまり語ろうとしないのは、そんなママの話に流れていくことを避けたいからかもしれない。
つい感慨にふけってしまったけれど、誰も何も反応しないことに気が付き、あれ? と思った。もう一回見回すと、今度はジハンを含めた四人が、戸惑った表情をしている。
「真子、俺達は前世で同日に殺された。これは合っているよな」
今更なことをヒコに確認され、私も戸惑う。
「そうだよ」
「同じ日に殺された四人は、同じ時期に転生をした。だからみんな前世での年齢はばらばらだったけれど、今は同じ年だ。その考えでいいんだよな」
「うん。そして私はみんなより一ヶ月早く産まれたために、学年が一つ上。って、話なんだけど」
「そこが、違うの」
美幸の言葉に、戸惑いが深まる。無意識のうちに助けを求めるよう拓也を見ると、眉を寄せ、何か一生懸命考えるような表情をしていた。そして私を見つめ返し、戸惑いを隠せない口調で告げる。
「俺とヒコは六月二十日に生まれた。美幸は十九日。真子より約三ヵ月、遅いんだ」
「え?」
一瞬、何を言われたのか、それがどんな意味を指すのかが分からなかった。
「一ヶ月って、差じゃない。真子が普通に生まれていても、二ヶ月早いんだよ」
拓也を見つめながら、ヒコの計算を聞いていた。今まで前提で話していた考えでいくと、二ヶ月の差は私が前世で殺された時期のずれに直結する。二ヶ月早く死んだことになるんだ。
「でも、それって……」
上手く考えの整理が付かなくて、意味を持たない言葉だけが口から出てゆく。あの乱闘で、私はサイムジンをかばって殺された。けれど同日中にみんなも殺されたはずで、それなのに私だけ二ヶ月早くて。
私は、……アクタではないの?
ありえない疑問がぽっかりと浮かび、ただひたすら、拓也の顔を見つめていた。
-第三章 終わり-