古代スカンジナビア、特にヴァイキング時代のなくてはならない要素に船がある。船のことは知人が書いてくれたページがあるのでそちらを参考にしていただければ幸いです。

ヴァイキングシップについて by Søren in Denmark

古代スカンジナビア人が用いたと思われる船が多く発見されており、それらは多種多様なものであり、いかに古代スカンジナビア人にとって船が重要なものであったかが伺われる。



船の遺物


場所 形状 時代 大きさ
サットンフー1 西暦620年 27m
Kvalsund1 西暦690年±70 9.5m
Kvalsund2 18m
Gredstedbro   8世紀 20 - 25m
オーセベリ 西暦820年 21.5m
Årby ex Rasbokil   9世紀 3.8m
Szczecin   西暦834年〜/896年〜 8.25m
Czarnwsko2   9世紀 14 - 16m
Ralswiek1   13 - 14m
Ralswiek2   西暦1000年 9.5m
Ralswiek4   9世紀 12 - 13m
Fjørtoft1   西暦860年±90 9.86m
Fjørtoft2   5.72m
ゴクスタド 主船 西暦895年 23.24m
ゴクスタド ボート1 西暦900年 9.75m
ゴクスタド ボート2 6.51m
チューネ   西暦910年 20m
Schuby Strand   9〜10世紀 10.5 - 12m
Puck2   9〜13世紀 18m
Puck3   9〜10世紀 11+m
Ladby 西暦900〜950年 20.7m
Klåstad   西暦990〜1000年 21m
Äskekärr1   西暦925年〜932年/
西暦1000年〜1010年
15.8m
Bagart ex Baumgarth   8世紀〜11世紀 11.9m
Frombork ex Frauenburg   17.4m
Lad   西暦900〜970年 10.7m
Czarnowsko1
ex Lebafelde
ex Charbrow3
  10〜11世紀 13.8m
Gdansk-Orunia1 12.8m
Gdansk-Orunia2 11m
Gdansk-Orunia3 13.3m
スクデレイヴ1 1000〜1050年 16.3m
スクデレイヴ3 14m
スクデレイヴ5 17.5m
スクデレイヴ6 1050〜1100年 11.6m
スクデレイヴ2 1060〜1070年 30m
Fotevik1 西暦1100年 10.3m
Bulverket   11〜12世紀 8m
Mechlinken   9.32m
Charbrow1   13.2m
Eltang   西暦1132年〜 17 - 18m
Gislinge 西暦1130〜1150年 7m
Lynæs1 西暦1150年 25m
Galtabäck1 西暦1040〜1220年 14m
Falsterbo   西暦1065〜1275年 13 - 14m
Ellingå 西暦1163年 14.5m



文献(サガ、エッダ)における船


文献から船の様々な様子がわかる。これについてはサガを史料とみるか文学とみるかで問題があろうとは思いますし、文献、いわゆるサガに描写されている様々なシーンがサガのj時代のものか、はたまた本当に数百年前のヴァイキング時代の姿を映し出しているのかがいつも問題になるという事は念頭において置いてください(大抵はそれらはサガの時代の描写とみなされる)。文献史学と史学との立場の違うもあるかと思いますので、とりあえずここに書いてあることは文献からの構築であって、史学における実際のヴァイキング時代がそうであったかどうかの検証はまた別の作業であると理解しておいていただければ怖いものなしです。

◆ 船の種類

ボート bátr

オールの数で分類されるもので、大きなものは skip という。

意味 名称
4本オール feræringr
6本オール sexæringr
8本オール áttæringr
10本オール teinæringr
12本オール tólfæringr

上記以外にも ferærðr bátr (4つのオールのボート)や tólfært skip (12の船)などの表現がある。興味深いのは teinæringr で、これの語源は MLG(中期低地ドイツ語)の tein (10)からである。

ボートには甲板がない(大きなものは前後に甲板のようなものがある)。ボートでは漕ぎ手は横木に腰掛けるか、船底に座ることになる。大きなものになると帆を積んでいる。外洋船には少なくとも一隻、通常二隻のボートを積んでおり、これらは skipsbátr (船のボート)という。貨物船に積まれた小さな方 (yfirbátr。過度のボート)は帆の後部に据え、大きな方(eftirbátr)は綱で曳いて運ぶ。漕ぐ手段が標準装備されていない貨物船は短い距離などは曳航されるのである。

特殊な用途の船にはフェリーがある。これらは ferja や eikja といわれる。これらは川や湾を横断するときに用いれらた。ソールが渡し守とやりとりをする韻文エッダ詩のハールバルズの詩では ferjukarl(渡し守) と eikja(渡し舟) が出てくる。もともとは eikja は樫の丸木舟だったと思われ、それが後にキールのない小舟を意味するようになったと思われる。

軍船は13対(26本オール)を最小とし、þrettánsessa (13漕手席。13対オールの船)という。オールの数や漕手席の数で示さない漕ぎ手の数 (róa á borð)で示す船がある。これらには固定された漕手席がなく、それぞれチェストを置き、それに座ったと思われる。このタイプの船は対のオールを操作するというものではない。非常に有名にゴクスタド(片側16個のオール穴)、オーセベリ(片側15個のオール穴)がこの部類に入るかと思われ、固定された漕手席はない。そしてまたこの2つの船は文献で見られる karfi という部類に入ると思われ、フィヨルドや湖用であろう。この船が首領の私船として用いられた時、様々に色づけされたり装飾されたと思われる。 karfi は異なる水路に移動するために陸上を運ばれたことが幾度となく物語中に登場する。コンスタンチノープルに向かうヴェーリングの航海の描写で多くんこの説明がされているのである。 karfi は大海用ではなくフィヨルド、湾、河といった地形に用いられた。
この他に漕ぎ手の数で数えられる大きさを持つ skúta がある。これは帆も櫂もあるが karfi とは異なり、軍事用に作られたものである。斥候や急派用としてすぐれたもので、船足は早い。また一方、戦艦として用いられた。 skúta もまた karfi 同様に陸上を運ばれ、河の航海にも用いられた。このタイプの船はスカンジナビア外でも発見されており、音韻学的に北ドイツ、もしくはフリースランドが発祥の地であろうかと思われる。

ロングシップ langskip

これも軍船で、それぞれの船縁の漕ぎ手のベンチ(sess)の数で大きさが決められる。スウェーデンでは総数で数えられたと思われる。最小が片側13席の þrettánsessa で、一般的な大きさは片側20席 tvítugsessa であったと思われる。片側30席 þrítugsessa やそれ以上の巨大なものはまれであったと思われる。 langskip という語は古スウェーデン語や古デンマーク語の文献には残されていない。この語はラテン語の軍船を意味する navis longa からである。ノルド語以外のゲルマン圏ではアングロサクソン年代記の897年のアルフレッド大王がデーン人の軍船 æscas (MS œsc。古ノルド語 askar )に対抗するために60本オールもしくはそれ以上の langscipu を建造させたとの記述のみである。ロングシップや竜船はこの時代より前から用いられいるので、イギリスからの輸入ではないと思われる。

ロングシップの部類には leiðangrsskip(徴兵船)、dreki(ドレキ、竜、竜船)、skeið(ドレキと異なる快走船の軍船)、snekkja(蛇のように早い快走船のためこの名) が入る。 snekkja は一般的にスウェーデンでの軍船の呼称で、古デンマーク語ではこの呼称はわかっていない。古フランス語の文献では esneque の単語が北欧人の速い手漕ぎ船に用いられている。古ノルド語の文献でも snekkja がしばしばヴァイキングシップを示し、ヴェンド人の船を指すためにこの呼称が確立したと思われる。ほとんどのものが20個のベンチであるが、同サイズの他の軍船と異なるのは船体の細さで、スピードを重視した作りになっている。

ロングシップの典型的なものは skeið でこれは古スウェーデン語や古デンマーク語のルーン碑文でも残されている。この語はまた「レース」を示し、古代スカンジナビア人は競馬を好んだ。これはスカンジナビアの海賊船を示すために古英語に scegþ と借用されたが、後に1008年にアルフレッド王が建造を命じた重量級の43個のベンチの船を指した。 skeið の構造はあまりわかっておらず、竜船よりは小ぶりであったと思われる。

ヴァイキングシップの一般的なイメージは竜船つまり dreki ドレキであろう。船首に大きく口を開いた竜の頭が付けられ、船尾には竜の尻尾が付けられている船がイメージされるであろう。この dreki という名称はデンマークやスウェーデンの文献では見受けられず、ノルウェイでは王国設立以前にさかのぼる歴史があると推測される。ヘイムスクリングラのハラルド美髪王のサガの9章では868年に竜頭の供えられた壮麗な dreki が建造された。またエギルのサガの10章では872年にソーロールヴがサンドネスで竜頭のある大船を建造させたとあり、続く11章ではハラルド美髪王がソーロールヴの宴に巡ってきた時、ソーロールヴは収容人数の問題から納屋に豪奢な飾りを施し、そこに王を通したのた。王はご馳走やその他の事が立派だったのにもかかわらず誰の目でみても立腹していたため、ソーロールヴは王の出立の日に王に忠義を示すために建造した竜船に装備を整えて王に贈ったのであった。

dreki 竜船は外来語であることは間違いなく、ラテン語の draco から由来し、これは口を開いた竜頭が舳先にある船であった。ドレキの船尾には竜の尻尾がつけられ、古ノルド語で sporðr(魚の尻尾)、krókr(曲がったもの)である。ドレキはもともとは竜頭をつけたものを指していたが、後になって同モデルの重量級の軍船一般を指すようになる。ドレキは少なくとも30個のベンチがあり、最大のものはクヌート王の60個のベンチである。

船首への頭飾りの装備への言及はサガにもいくつかある。これは dreki では標準装備で、 skeið や大きな商船でもしばしば備え付けられた。これらのタイプの船は höfðaskip、höfuðskip という( höfða 頭)。これらはスウェーデンやデンマークの石碑でも船首に頭飾りが施された船は描写されている。竜頭(drekahöfuð)と頭 (höfuð) の違いはあまり明確ではない。 karfi であるオーセベリ船にも蛇の頭が舳先にある。片方は樺で片方はオークに彫刻が施されたもので、ennispænir (彫刻を施された船首、船尾飾り)や gullspænir (黄金の船首、船尾飾り)といわれた。

大型船の船首もしくは船尾は一般的に3部から構成される。1)stál (鋼。舳先の突起部)、2)barð (鉤状の舳先の突起部)、3)水面下の undirhlutr (より下の片、最下部)である。垂直に立った柱である stál の上に飾りが載るのである。

軍船の barð は衝突に備えて鉄で覆われていたものもあった。北海大王クヌートのドレキは aerata rostra (aerata 空気に当たった。rostra 複数形(単 rostrum 古代ローマ船の船嘴(舳先から突き出たもの))を備えていた。このタイプの船は járnbarði (鉄の船)、barði (船)と称される。この語は古英語に借用され、navis rostrata、barda、barþa となった。矢のオッドのサガにも船首を鉄で覆い強化した竜船の描写がある。

小型船にも2つの構成部がある。上部は尖るか曲がるかして船から突き出ていた。フェロー諸島の釣り船などにも名残があり、シェトランド諸島ではこれを horn と言い、古英語の hornscip、 (船嘴のある船)と同意味である。オーセベリ船には渦巻き状の飾りがついており、ゴットランドの絵画石碑にもそのような描写がある。これらの飾りは古ノルド語の hringr に基づくもので、バルドル神の船の Hringhorni (渦巻き状の突起部)、古英語 hringed stefna、hringnaca (船)と関連する。

オーセベリの船首の渦巻き状の内側の最終部には少し膨れた蛇の頭があり、また船尾の渦巻き状の飾りの最終部はとがった尻尾になっている。これは渦巻き船と竜船の中間的なものであろうと推測されるのである。

青銅時代からある絵画石碑にも舳先の飾りの描写があり、石碑には動物の頭を冠した船の描写が見受けられる。ドレキには飾りが常備され、skeið や大型商船 には一般的に備え付けられており、これらのタイプの船は既述のhöfðaskip、höfuðskip と総称されるのである。

サガに登場してくる船で最も有名と言って過言ではないものはオーラヴ・トリュグヴァッソン王の長蛇号 (Ormrinn Langi) であろう。もともと蛇号があり、それよりも大きな34漕ぎ手席のある船を建造したのでこの名が付けられた。蛇号 (Orminn) は帆を広げた姿が翼を広げた竜のようであったため、この名が付けられた。後に短蛇号 (Orm in skammi) と変更される。またオーラヴ王はそれより前に30漕ぎ手席のある船首、船尾が高く作られた鶴号 (Traninn、Tranan) も所有していた。これは快走船 (snekkja) であった。蛇号は敵対するラウズの所有物であったものを戦利品として奪ったもので、鶴号よりも大きく立派なもので、竜の頭と尻尾の供えている竜船であった。この他、ヘイムスクリングラでは聖オーラヴ王の王の顔が掘り込まれた益荒男号 (Karlföfði) 、聖オーラヴが建造させた野牛号 (Vísundr) などがあるが、これらの例は多くはないのである。ラテン語の文献の Cnutonis Regis Gesta ではクヌート王の船の飾りは、ライオン、竜、雄牛、人頭と言及されおり、ソール神の像が舳先についているものもあったのである。

また舳先には風見 (veðrviti) がつけられているもの、ペナントがつけられているものもあった。リンゲリーク様式が由来する風見は教会に付けられていたのだが、もともとは舳先に飾られていたと思われ、そのような描写はベルゲンで発見された13世紀の木切れにも描かれている。矢のオッドのサガにも風見が付けられた竜頭の描写がある。

また drómundr という船がある。これはヘイムスクリングラの終盤で登場する。ギリシャ語から由来する大型船である。グレティルのサガの90章にこの語が登場する。谷口教授訳の「アイスランド・サガ」では「大船」のソルステインと訳されているので動きが緩慢なイメージやあまり強そうな印象が受けないかもしれません。しかしこの章に記述されているように彼はヴェーリングに所属したと語られている。ギリシャ語の「走る」から由来するドロモンド船はビザンツ海軍の軍船であった。

(正しいのかどうかわかりませんが(おいおい)、ネットで絵を見つけてみました。)http://www.grinda.navy.ru:8101/sailship/ship/dromone.htm

彼がビザンツ海軍に所属し、ヴェーリングとして働いていたことを示唆するあだ名だとの推測がたつのである。またオークニンガ・サガの87〜88章ではサルディーニャでのこの船との戦いが描かれており、乗組員が島と見間違えた大きさということであった。

他、ヘイムスクリングラのオーラヴ・トリュグヴァッソン王のサガにはヤールのエイリークが所有する barði が登場する。これは舳先に備えられた鉄製の装備により強化された船である。

商船 kaupskip

大型の船で一般的に knörr が知られている。これは一般的に外洋船 (hafskip。海船) で、英国、アイスランド、英国の島嶼との長距離交易に用いられたものである。商船はロングシップより外洋の荒波に適していると思われる。(ノルウェイのゴクスタドを模した復元船が大西洋を渡ったり、マン島の発掘物から復元されたオーディンのワタリガラス号が北海を航海した事実はあるので、商船以外が全く外洋に対応できないというわけではないと思います。)。バルト海の交易に限定された船はより小さな austrfararknörr (東方の旅の商船)で、これは stórskip (大型船)ではあるが外洋船ではない。商船には多くの人員が必要ではないため、オールの数も少なく、中央の貨物室 (klofrúm) の両側にある部分的なデッキで用いた。商船は軍船に比べ幅が広く、船縁が高い。これらは外洋により適しており、帆で航行がしやすいのである。 knörr はまたスウェーデンのルーン石碑にも見られ、古デンマーク語の文献でも見られる。古英語 cnear と古フランス語 canar(t) は古ノルド語から借入された。中期英語の knarre 「木の節、こぶ」、「ふし」が関連語と思われ、 knörr は古くは船首飾りがあったと思われる。しかしこの語が商船を示すようになった頃にその習慣が廃れたと推測される。

12世紀には buza、bussa は、おおむね商船を指していた。これはかつては最も古い記録(1026年)では35漕ぎ手ベンチの船首に竜頭がある軍船を指していた。アングロサクソン年代記ではヨークシャーとヘイスティングのノルマン人の船乗りの名称として1052年と1066年に butsecarlas (buza の者ら)の記述が残されている中世ラテン語 buza は恐らく「ガレー船の一種」と「交易船」の2つの意味があったのであろうと推測がされる。ヘイムスクリングラに登場する「若い」エインドリディの所有する Draglaun 号は langskipsbuza で巨大なロングシップと理解される。

貨物船は使用される場所に関わらず、様々な大きさのものがある。最も重要なものは byrðingr である。ノルウェイでは沿岸で用いられ、ニシンやタラを市場まで運んだのであろう。このタイプの商船は他国でも使われ、際立つのは船側の高さである。この語は borð(船の縁)から由来し、byrðingr は船側が高く上がった事を示し、北欧由来の語である。その他、より小さな ferja があり、ボートの部類に入るものがある。大きなものは貨物船になるが、記述のように外洋には用いられず、ノルウェイでは帆がない一方、アイスランドでは帆があった。

◆ 船の各部の名称

船体 (rúm) は横桁で仕切られる。軍船は各部に人員を配置し、以下のように区切ると思われる。

1) lypting
船尾楼。船尾側の立ち上がった甲板。ここに首領や側近、舵取りがいる。

2) fyrirrúm
船首楼。船首側の立ち上がった甲板。ここに優秀な戦士を配置する。ここにあるチェストに武器が備えられている。

3) krapparúm
船尾楼の前にある船の多くを占める場所。ここに一般兵が置かれ、彼らは同時に漕ぎ手であり、彼らが腰掛けるベンチに各個人のものが置かれる。

4) austrrúm
水を掻き出す場所。人員は置かれない。

5) austrrúm
上記と同じ。

6) söx
恐らくここは舳先にかけて立ち上がる舷側上縁の部分。舳先と水の書き出し場の間にあると思われる。

7) stafn、stafnrúm
船首楼の防衛を担当する者 (stafnbúar) が置かれる。彼らの中には軍機持ち、見張りがいる。小さな立ち上がった上部の場所。

商船は軍船とは異なり、 lypting がない。 stafnlok (舳先のロッカー)と2つの höfuðbitarúm (頭の横桁で仕切られた場所)で、主要な甲板の横桁の両側にある。マスト付近の甲板がなく船底に直接荷物を置く貨物室は klofrúm (klofi マストの友から由来)という。

またヘイムスクリングラのハラルド美髪王のサガに人員を配する描写がある。9章の記述では、竜船を建造し、それに身辺護衛者とベルセルクを配し、船首には選りすぐりの戦士を置き、その者らが王の軍旗を持った。舳先から水を掻き出す部分 (austrrúm) までが rausn でここにベルセルクが置かれた。またオーラヴ・トリュグヴァッソンのサガでは93章〜94章では人員の配置が詳しく描かれている。長蛇号には20歳〜60歳までの勇敢な戦士だけを乗せた。オーラヴの軍旗持ちの赤のウールヴは蛇号の船首に配置され、その横に王の元帥のコルビョルン、牛脚のソルステイン、チュンダランドのヴィーカルを据え、アルンリョートの兄弟を据えた。rausn にはヴァク、強いベルシ、射者のアーン、トランド、その兄弟のオーシュルミルが置かれたと述べられ、それ以後も人員の配し方が述べられている。そして蛇号の各船倉の半分の場所に8名づつ置かれ、船首船倉部には30名がいたと記されている。

 

文献には様々な船が登場します。船のことを少しでも理解していれば、サガを読むのが楽しくなると思います。え、なになに?最近はめっきりとサガの和訳がでないのでもう読むサガがない?いや、それは日本の学者先生ががんばってくれないとこればかりはどうしようもありません。と、かるくいやみを入れてみたり・・・。
(05/05/06)


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