遠い記憶
3.鳥の章
その5
イーシィの依り代となっている鳥は自分の翼にくちばしを入れると、左右から羽を一本ずつ抜き出した。美幸がそれを受け取ると、私と拓也それぞれに渡す。
「その羽に息を吹きかけたら、目の前にかざして」
言われたとおりにすると、鳥がその羽に風を送り込むように羽ばたいた。次第に手に持つ羽の白さが際立って、気が付けば光りの塊のようになっている。最後に溢れるように光りは膨張し、ふいに羽ごと消えると目の前に人が立っていた。馴染みのある顔が自分の事を見つめている。
ってこれ、私じゃんーっ!
慌てて隣に視線をずらすと、拓也が二人立っていた。
「身代わり? これ、身代わり?」
幻みたいなもんってヒコが言っていたけれど、どう見ても質量あるし、息もしているよこの人達。
未知の技に恐れて涙目になっていると、偽の自分ににっこりと微笑まれてしまった。やっぱ、怖い。
「本人も怯えるほどの精巧さね。よく出来ました」
「ありがとうございます」
美幸に褒められて、イーシィが嬉しそうに言葉を返す。ここ近辺では最高位の権力者だというのに、ちょっと素直に懐き過ぎやしないかイーシィ。
「ではこれから術士達の力を封鎖します。お二人は、私が合図したら脱出を」
何てことなく言い切るその言葉に、びくっとした。今、力を封鎖って言った? 穏やかじゃないよ、それ。
「力技は駄目よ、イーシィ。今、事を起こしたら何も分からないままになってしまうでしょ」
「まあ、自分の知らないところで勝手に動かれて腹立たしいのは分かるけどな」
すかさず釘を刺す美幸と、フォローに廻るヒコ。その掛け合いを聞いて、やっぱりと納得した。
術士といえば、どう考えても現ポンボ職のイーシィの下に付く、配下の者。衛兵とは違い、エシゲ家宗主の召使ではない。それなのに自分の知らない間に姉に好き勝手に使われていたなんて、私だったら最大限に怒ってしまう。素直な気性のいかにもなお嬢様はそこら辺どう感じているのかな、とか思っていたのだけれど、さすがに人並みにはムカついているんだ。
「もちろん、本人達に気付かれないようには致します」
「でも、シャータには気付かれるかもしれない。身代わりを立て、二人を誰にも気付かれないようにこの城から出し、明日の夕方に戻してくれるだけでいいの。それ以上の行動は厳禁よ。鳥として二人の後を付いてゆくのも」
「そんな……」
美幸の厳しい注文に納得しかねる様子で、鳥は体中の羽を膨らませた。対する美幸は動じる様子もなく、真っ直ぐに鳥を見据える。
「信頼してちょうだい、イーシィ」
「……分かりました」
くぅっとため息のような鳴き声を小さくさせると、鳥は私と拓也に向かって翼を広げてみせる。
「それでは外へ送りましょう。どこが良いですか?」
「街へ。まずは宮殿とは無関係の、街の様子が知りたい」
「分かりました。それでは街へ」
拓也の要望にうなずくと、鳥はまたもや風を送るように羽ばたいた。白い鳥の羽が、灰色の胴体が、少しずつ明度を上げて光ってゆく。まるで滲むように光りは広がって、それと共に私の体がぐらりと傾いだ。もはやお馴染みの術での移動。けれどいつもと違い、意識が引っ張られるようなあの感覚がやたらに強い。
まるで初めて移動したときみたい。
そう思った途端、がくんと膝から崩れ落ち、そして地面に手を付いた。
「地面。……土だ」
その事実に、慌てて空を見上げる。
建物の中ではない、青空の下。狭い路地で、向こうから絶えず人の行きかうざわめきが聞えてくる。けれど通りの裏側らしく、決して人がやって来る気配は無い。そんな場所に私達はいた。
「立てる?」
手が差し出されるから、素直につかまる。立ち上がると拓也が面白そうに私の顔を眺めていた。
「久しぶりに酔ったみたいだな」
「ああ、うん。でもなんで?」
「術を使ったのがイーシィだったから。受け入れる気が変われば、それなりに違和感は覚えるよ」
「そういえば、術での移動は拓也以外と組んだことないものね」
そうかと納得しつつ、息を吸い込む。ひしめき合う土壁の埃っぽい匂い。街に染み込んでいる香辛料の匂い。風に乗って流れてくる通りのざわめき。次第に気分が高揚してくる。
そうだよ、街に着いたんだ!
「最初にどこに行くの?」
先に歩き出した拓也の後をあわてて追い、問いかける。
「質屋か宝飾店へ。換金をしたら、先ずは買い物から始めよう」
「買い物?」
「明日、宮殿に戻ったら、今度は全員の脱出計画が待っているんだ。今のうちにできる準備はしておいたほうが良い。それに街の人間だって、同じ世間話なら単なる見知らぬ人間より客相手の方が口も軽くなるだろ」
もっともな意見にうなずいて、路地を出て通りに一歩を踏み出す。途端に馬鹿みたいに口を開け、ふわぁと変な声を出してしまった。
通り一面に商品を並べ、客を呼び込む店の数々。鍋や金物を天井からぶら下げている店や、布を広げ女性客にアピールしている店、色とりどりの香辛料を扱っている店もある。そして行きかう人々の格好は楼門で見たときのように雑多で、ここがいくつもの民族が交差する商業都市であることを実感させた。通りの真ん中では絶えず牛車や馬が満杯の荷を積んで移動をし、街の喧騒をより強調させている。
「こっちに来て、初めての都会だ」
すっかりおのぼりさんな口調でつぶやいたら、拓也にくすりと笑われてしまった。
「時間が無いから、観光はしないよ」
「分かってるよ」
反射的にむっとして言い返すけど、このわくわくとする感覚は抑え切れない。宝飾店を見つけそこに入るまで、いかにもな旅行者の態度であたりを忙しく見回していた。
宝飾店は大通りの中ほどに位置していた。店に入った瞬間、店主の値踏みをするような視線を感じる。でもこのくらいでひるむような、やわな神経はこちらだって持っていない。逆にすっかりやる気になってカウンターまで進むと、背中に担いでいた荷袋から貴金属を取り出した。
「あの」
「こちらの買取をお願いします」
拓也に後を言われとっさに店主の反応をうかがうと、当たり前のようにうなずかれた。
「エクチン、パルカッヌース」
言い置いて、私たちの財産を手に取り値踏みする。このやり取りにびくりとした。
「もしかして拓也、術使った?」
「使って話さなきゃ、交渉できないだろ」
って、まずいじゃん、それ!
「あれだけイーシィに協力してもらってこっそりと抜け出したのに、術使っていたら元の木阿弥じゃないの。直ぐに見つかっちゃう!」
焦って小声で叫んだら、拓也にはあ? という顔をされてしまった。
「真子、この街にどれだけ術が使える人間がいるのか、分かっていないだろ。斎宮の術士が監視や妨害活動が出来るのは、宮殿内だけだよ。一旦外に出た人間を探せるほど、彼らだって万能じゃあない」
「え、そうなの?」
戸惑いながらもトーンダウンをすると、まるでなだめるようにぽんぽんと私の頭を撫でて、拓也は店主と交渉をはじめてしまった。どうやら値踏みが終わったらしい。
術を使わなくても言葉が通じなくても、気合とノリで交渉するのは可能だし、結構私は得意な方だ。これはこの旅で覚えた技のようなもの。けれど細かいやり取りは、言葉が通じたほうが遥かにスムースに進む。結局交渉は拓也に任せ、私はただ二人のやり取りを眺めるだけとなってしまった。売買されようとしているのは、もちろんハダクの祭りの時にケレイトの族長シャラブから貰った、装飾品だ。
あの時はこれを換金しろって言われても、ピンとは来ていなかったんだよね。
シャラブの思いやりとその現実的な餞別に、なんだかしんみりとしてしまう。つい黙り込んで交渉の品を見つめていたら、急に店主に話しかけられてしまった。
「これは思い出の品なのか? って聞かれているよ」
「あ、うん」
こちらの言葉が分からないから、物を指差してうんとうなずく。それで店主は分かってくれたらしく、また拓也の方を向くと話しが再開された。程なくして商談は成立し、金庫から銀貨が出される。
「その思い出のために、少し高めに買い取ったって」
「ありがとう、おじさん!」
「エリベタウンラ、パウジュー」
最初は無愛想だった店主はそう言うと、片目をつむって見せた。いわゆるウインクだ。
「今のはなんて言われたの」
訳して欲しくて拓也を見たのに、なぜか困ったような顔でこちらを見返されてしまった。直前までの強気な態度はどこに行ったんだろうと、ちらりと思う。
「どういたしまして、とかそういう意味。さあ、次行くよ」
促され、店を出る。次に向かったのは輸送用の馬や牛を扱う店だった。
他にも食料品や旅に必要な品物が置いてある店を順繰りにまわり、それぞれの値段を聞いて交渉する。その場では決断を敢えて避け、他の店も見てから決める事を匂わせ、一旦出る。何一つまだ買ってはいないけれど、このやり方でずいぶんと色んなお店を見ることが出来た。けれど、さすがに体力を使う。
「拓也、そろそろ休憩しよう。私達、お昼ご飯も食べていないよ」
すっかりふらふらになってそう訴えると、拓也も素直に同意した。通りに面した食堂を見つけ、二人で入る。店内を見回すと、お昼の混雑も落ち着いた時間だというのに、いかにも地元らしき人達が遅い昼食を食べていた。観光地や商業地でこういうお客のいるお店は、ちょっと期待できそうだ。
店のお勧めを聞きながらの注文を終えると、拓也がトイレへと席を立った。こんな普通のやり取りも、ずっとただっ広い草原を旅していた自分達にとっては新鮮だ。この一ヶ月以上、トイレは設置されているものではなく、自分で場所を決めるものだったからね。なんて、どうでもいいような事をぼんやりと考えていたら、急にがたんと椅子のひかれる音がして、目の前の席に人が座った。大人びてはいるけれど、私と年齢は変わらないくらいの男の人。そんな彼がにこやかに微笑みながら、話しかける。
「お嬢さん、一人? 一緒にお昼を食べても良い?」
「はい?」
聞き返してから、すぐはっとして身構えた。ここの住民らしい姿格好、術を使っての会話。やっぱり術士が追ってきたんだ。
けれど警戒したのもつかの間、次の台詞に虚を突かれた。
「どこの国の出身ですか? 君みたいに可愛い子、この街で見たことが無いよ。ここへは移住しに来たの?」
たどたどしいながらも、愛想良く話し続ける男の人。ひたすら相手を持ち上げるこのテンション。徹底したフェミニストっぷり。あの、まさかとは思うんだけれど、これって、……ナンパ?
その単語が浮かんだ瞬間、固まった。
「ねえ、君の名前は? あ、俺はさ」
「いや、あの」
予想もしなかった事態発生。どう反応すればいいのよ、これ。
無駄に視線を泳がせて、意味も無く時間を稼ぐ。すると自分の頭上から、聞き慣れた声が降って来た。
「俺の妻に、なにか用か?」
はいーっ?
とんでもない台詞に、反射的に振り仰ぐ。拓也がむっとした表情で、男性をにらみ付けていた。
えーっと、あの、妻。彼女とか、恋人とか、そんなプロセスをすっ飛ばして、妻ですか私? っていうか、ただの旅の仲間なんですけど!
ナンパに妻宣言と、自分の許容範囲を超える出来事に、声を上げることも出来ない。けれど男性は納得したようで、あっさりとうなずいた。
「あ、パウジューだったんだ。失礼」
パウジュー、のところに「巡礼さん」という言葉が被さる。言葉の意味は術のお陰で分かったけれど、なんで妻宣言をされた途端、それが巡礼者になるのかが分からない。問いかけるように隣の席に着いた拓也を見ると、返事の代わりに私の手をきゅっと握り、微笑まれてしまった。
「一人にさせて、ごめん」
この状況で、王子様スマイル。いくら免疫ついているとはいえ、さすがにくらくらする。
けれどとりあえず、黙って拓也に合わせている方が良いのは理解した。いや、多分そういうことなんでしょう。
ナンパをしてきた男性は、ダド・イブン・エッガイと名乗ってくれた。
「ダド商会っていう、店をやっているんだ。親父の店ね。主に輸送を請け負っている。俺のこと、エッガイって呼んでいいよ」
直前まで拓也ににらまれていたことなど気にもせず、人好きのする笑顔で自己紹介をしてくれる。術が未熟なのか文章というより単語での会話に近くて、「イブン」のところで息子という言葉が重なった。ダド・イブン・エッガイを訳すると「ダド家の跡取り息子のエッガイ」となるんだろう。名前の付け方がエシゲ・ポンボ・ナムニと同じだ。
「でもこうして術を使って話しているってことは、エッガイは斎宮付きの術士なんだよね?」
そう尋ねると、軽く笑い飛ばされてしまった。
「術って言っても、俺が使えるのはこの会話術だけ。この程度で、斎宮は雇ってくれない。でも、商売と外国の女の子を口説くのには役立っているよ」
「あ、はあ。そういうものなんだ」
後半の台詞は敢えて流すとして、エッガイの言葉にようやく不安が解消された。確かにこの位でも術を使える人間が普通にいるんだもの。よほど私たちを知っていなければ、多少術を使ったくらいでは探せはしない。
ちらりと拓也を見上げると、しっかりと視線が合ってしまう。ほら見ろって、そう言いたげな表情だ。
「主に輸送業ってことは、他にも何かしているのか?」
巡礼さん、の一言ですっかりナンパは無いものになったらしい。拓也が聞いて、エッガイが普通に答える。
「後は巡礼者への同行手配とか。そういえば、店に値段交渉しに来た夫婦いたって聞いた。あれ、君達でしょ」
「ダド商会って、ここの通りの一本奥入った、店先に牛車が何台も止まっているお店?」
夫婦、の部分に反応できず、先ほど入ったそれらしきお店の特徴を挙げてみる。牛や馬を扱うだけにどこのお店も間口の広いつくりをしていたけれど、もしあそこだとしたらかなりの規模だ。半分試すような気持ちで聞いてみたのに、エッガイはあっさりと肯定した。
「そうそこ。俺のとこでよければ、安くしとくよ。せっかく知り合ったんだし、お友達価格ね。どう?」
ナンパの次には取引と、商売人らしい切り替えの早さだ。けれどそれは自分達にとっても、都合の良い話だったりする。
「これから買う荷物を、エッガイのお店で預かってくれる? それが出来るなら、山道用の牛車を借りたいのだけれど」
あれだけ色んなお店をまわっておきながら何一つ買わなかったのは、置き場所が確保できていないという問題もあったから。つい勝手に交渉に持ち込んでしまったけれど、大丈夫だよね。確認するように拓也を横目で見ると、うんとうなずいてくれていた。
「すぐ出発しないの?」
「仲間達がいるんだ。事情があって二手に分かれてしまったけれど、直に彼らと合流する。俺達はそれまでに準備を整えるつもりだ。エッガイの店に買った物を置けるなら、そうさせてくれないか」
「分かった。いいよ」
エッガイは気楽に請け負うと、続けてにこやかに微笑み持ちかける。
「でもそうすると、二人はすぐには出発しないよね。今夜の宿、決まってる? 俺んちの従兄弟が宿屋をやっている。どう? いい部屋紹介するよ」
商売人って、凄い。そう素直に感心した瞬間だった。
この後、エッガイは食事をしながら宿屋の位置や商店のお徳情報を教えてくれた。夕飯も宿屋の隣のお店がお勧めとのことで一緒にとる約束をし、待ち合わせ時間を決めると、自分のお店へと戻って行く。
「拓也と喧嘩したら、いつでも俺に乗り換えるんだよ、真子」
別れ際の台詞はとてもナンパ師らしいもので、露骨にむっとした表情を見せる「夫」の拓也とあわせて、なんだか一連の様式美を見ているようだった。
「さて、旦那様」
エッガイが完全に去ったのを確認してから、拓也に向き直る。
「どういうことだか説明してもらいましょうか。巡礼さんって、何よ」
詰め寄りはするけれど、どこか恥ずかしくて拓也の目を見ることが出来ない。対する拓也もそっぽを向いたままだ。けれど早い口調で一気に説明をしてくれた。
「聖なるオボ山への巡礼をする人達のことだよ。オボに棲む精霊は一組の夫婦と考えられていて、その霊力にあやかろうと、夫婦で巡礼をする人達が多いんだ。しかも結構険しい山だから体力のあるうちに巡礼した方がいいってことで、気が付けば新婚夫婦の旅行の定番になって」
「つまりここは、熱海とかハワイみたいなもの?」
「……熱海って、古すぎないか? それ」
何十年前の話だよ、とつぶやき拓也が笑う。その返しに乗っかって、一緒になって私も笑った。さすがに新婚さんの妻役はね、心の準備が出来ていなかった分、動揺だってするよそれは。こういう時はだからこそ、笑いに逃げるに限るんだ。
場の雰囲気も和み、変な緊張も無くなったところで、気持ちを改め店を出た。荷物の置き場所が決まったし、これで買い物に専念できる。
午前に回った店をもう一度回り、交渉を再開し、買ってゆく。その時ついでのように、ここ最近のホータンウイリクの世情を聞いた。私達のもう一つの大事な役目だ。
巡礼さん、つまりは新婚さんの買い物客と思われている私達におおむね街の人たちは親切に接してくれたけれど、一方、情報収集ははかばかしくは無かった。
「キョエンの気の乱れで他の地域からの移民が増えて、治安が最近悪くなったって言うけれど、それでも平安は守られている。この地の気を鎮める現ポンボ・イーシィの人気は絶大だし、さらにエシゲ家の宗主であり領主でもあるポンボ・シャータは人民の母と言われるくらい。娘のツェンバイの話すらうまく隠されているんだか、でてきやしない。イーシィもシャータも、有能な人達だってことは分かったわ」
一日中歩き回り、ようやく宿屋へと向かう途中、今までの情報をまとめてみた。荒れ果てたキョエンからやって来た側からすれば、驚くほど平和な場所だよ、ここ。
「後はイーシィの言っていたオボ山の北側に、明日実際に行ってみるしかないな」
「エッガイに、馬を借りるの?」
「その方がいいだろう」
そんな話しをしながら宿屋に着くと、すでに連絡を受けていたらしい主人が迎い入れてくれた。拓也が鍵を受け取り、二階へと上がる。その鍵が一つしかないのに気が付いた。
「拓也、私の分の部屋は?」
言った途端、自分に与えられた役割を思い出す。ぴくりと頬が引きつるのと、拓也がこちらを振り返るのは同時だった。
「一応俺達、新婚夫婦なんだけど」
引きつる私の顔を見た瞬間、拓也がにやりと笑ってそう言う。心の底から意地悪で楽しそうだ。ちょっと待ってよと、どんどんと緊張感が増してきた。えーっと、普通、新婚夫婦のお泊りする部屋って、男女別々になっていたっけ?
「あの、ドア開けると部屋二つとかになってたりしてる?」
試しに恐る恐る聞いてみる。
「スイートルームなんて、このレベルの宿屋に無いだろ」
あっさりと却下されてしまった。ってことは、あれか。ダブルベッドがどーんってパターンか。まずい。それは、まずい。
「じゃあ、床。私、床で寝るから」
「そんなこと、女の子に俺がさせるわけ無いし」
だからなんでこういう時にフェミニスト発揮するかな、帰国子女!
「それなら、拓也が床で寝て」
「嫌だよ。明日だって、体力使うんだ。ちゃんと寝台で寝させてもらうよ」
ってことは、同じベッドで添い寝? ちょっとそれ、常識的にみてどうなのよーっ!
いざとなったら回れ右してダド商会に逃げ込もうと身構えた瞬間、拓也がドアを開け放った。
こじんまりとした部屋の真ん中には落ち着いた風合いの絨毯が敷かれていて、茶たくとクッションが置いてある。そして正面と左の壁に沿わせるようにL字に配置されているのが、ソファー代わりにもなる背の低い二つの寝台。つまりはツインのお部屋ということで。
「ダブルベッドじゃ、無いんだ……」
一気に力が抜けて、へたり込みそうになってしまった。そんな私を見て、拓也が今まで堪えていたものを発散させる勢いで盛大に笑い出す。
「残念ながら同室だけれど、寝台は別だからこれで我慢して。とりあえず何もしないと約束はするよ」
「当たり前でしょ」
精一杯にらみつけて言ったのに、拓也は笑いを止めるとふいに私の耳元に顔を近付け、囁いた。
「期待してくれても良かったのに」
頬に耳に、かかる吐息にどきりとする。
「からかうの、禁止!」
どんどんと真っ赤になってゆく自分の顔が恨めしい。拓也は尚も面白そうに笑い続けると、手際よく荷物の整理を始めた。すっかり奴のペースになっている。
「早く隣の食堂に行こう! エッガイが待っているよ」
せめてもの反抗心でそう言うと、笑いを含んだ声ではいはいと言われてしまった。まるで子ども扱いじゃん、それ。