遠い記憶
2.草原の章
その1
二頭立ての牛車に乗り込み、がたごとと突き進んでゆく。地平線まで見渡せる、この広い草原。それでも昔から人々が利用する道というのが存在していて、大地にはところどころに轍が刻み付けられている。私達はその上をなぞって、目的地まで向かっていた。
パックツアーで企画したら人気が出るんじゃないのかな、なんてのんびりと観光気分でいたのもつかの間のことだった。
「で、真子は馬乗れるの?」
「馬?」
ごくごく普通に聞いてくる、この目の前の女の子を見つめ返す。
「小さい頃に競馬場に連れて行かれた写真ならあるけれど……」
そんな私の答えに、彼女が肩をすくめて反論した。
「それ、乗馬と違うから。とりあえずこれから特訓ね」
「特訓?」
「この世界、馬に乗れなきゃ話にならないのよ。別に競技会に出ろって訳ではないから、一人で馬乗って出かけるくらいのレベルまではなって」
「はい?」
すんごく当たり前のように言い切ってますけど。一人で馬乗って出かけるくらいって、どのくらいのレベルなのよ?
「とりあえず、自分の行きたい方向に馬に指示出せるというのと、落馬した時に怪我しないようになること」
翌日、つまり私がこちらに来て三日目、乗馬特訓を始めるにあたって拓也がそう言い切った。
「ちょっと待った。落馬前提なの?」
ここにいるのは私と拓也、それと二頭の馬達だけ。
牛車の歩みはどうしても遅い。最初にヒコと美幸が馬を駆けて先行し、後から例の不思議な能力を使って拓也と私が追いつき交代する。牛車と合流するまでが私の練習時間という段取りになっていた。
「落馬はしないのが一番だけれど、生き物相手に絶対は無いよ。上手い人ほど落ちた時の対処も上手いから」
そこまで言うと、へたり込んでいる私に手を差し出し、ぐいと引っ張り上げる。
「休憩お終い。始めるよ」
慣れれば平気という移動方法も、まだ慣れていないせいでどうしても直後はふらついてしまう。でも、やっぱり慣れてきたのかな。回数重ねるごとに、力の抜ける感覚はなくなってきていた。
「はーい」
とりあえず返事をして、目の前で草を食んでいる馬をじっと見つめる。テレビで見る競走馬に比べてずいぶんと小さい気がするけれど、その分がっしりとしていて丈夫そう。「よろしくね」と声を掛けたら鼻を鳴らされ、それだけでびくりとしてしまった。
「ほら、馬の左側に立って」
くすりと笑いながらも、指示を出してくる。
「左手で手綱と一緒にたてがみ掴んで、左足をその鐙(あぶみ)に引っ掛けて。そう、その鞍から下がっているペダルみたいなの。で、右手は鞍の後ろ握って。右足で軽く蹴ってはずみつけて、まず鐙の上に乗る。それが出来たら、またいで馬に乗って」
「う。こ、こう?」
よろよろと、おぼつかない動きをしながら何とか馬にまたがる。いくら想像より小柄とはいえ、馬は馬だ。自分の普段の目線よりも高いところ、怖いんじゃないかと思っていたけれど、乗ってみると案外平気だった。あらためて周りの景色を見回して、そのさえぎるものが何もない草原の雄大さに気分が良くなった。
「気持ち良いね」
馬を驚かせないように、大きな声は出さないように。
そう事前に言われていたから押さえてはいたけれど、でもつい浮き立って小さく叫んでしまう。けれど、拓也はそれには応えてくれない。私の足首を掴んで、鞍と鐙を繋ぐ革のベルトをいじっていた。
「踵に体重落として。鐙の位置は大丈夫か? ベルトの位置、覚えておいて。これからは自分で調節するんだから」
「あ、はい」
「前のめりにならないで、重心は後ろに持っていく感じで。背中丸めない。真っ直ぐにしたまま。そう」
言われたとおりに体勢をなおす。リクライニングシートで後ろに倒れているくらいのイメージで重心を後ろに持っていたら、ようやく「良し」というお許しの言葉をもらった。
「後ろ、倒れすぎじゃないの?」
「全然。怖いとどうしても前のめりになるだろ? 今くらいでちょうど良いよ」
そう言って、拓也がようやくにっこりと微笑む。王子様スマイルだ。
「それじゃあ、手綱を両手に持って。決して引っ張らないこと。最初は俺が馬を曳(ひ)いて歩かせるから、馬の動きに自分の体を慣らすところから始めよう」
てきぱきと指示を出すと、拓也は馬の口元から繋がれているもう一本の手綱を握りなおし、私を見上げた。
「軽く馬の腹を蹴って。出発の合図だから、軽くね」
「はい」
ぽんと蹴ると、それまでじっと大人しくしていた馬がのろのろと歩き出した。
「おおー、動いた」
それだけで嬉しくなってしまう。すっかり童心に返って、馬の背に揺られていた。
「拓也もヒコも美幸も、馬に乗れるんだよね。なんで?」
ぽっかぽっかという馬のリズムに揺られながら、素朴な疑問を口にした。
「こっちに来たら必要だって分かっていたからな。俺は中学まで海外にいて比較的乗馬がしやすい環境だったけど、ヒコはこっちに来る度、猛特訓していた。日本ではなかなか思う存分乗ることは出来ないからって」
「美幸は?」
「あいつ、上手いよ。小さい頃から乗馬クラブに通っていたから。インターハイに出たとか言っていたし」
うわ。お嬢様だ。
黙っていれば可愛らしくて儚げな雰囲気の美幸の姿を思い返し、納得した。小さい頃から乗馬クラブに通うだけの財力を持ったお家とあの見た目。十分にお嬢様なのに、ひとたび口を開けば辛らつな語り口。
「やっぱり二回分の人生の記憶があると、どうしてもひねくれちゃうのかなぁ」
美幸を思いながらぽつりとつぶやいたら、拓也に吹き出されてしまった。
「それ、美幸に言っても良い?」
「駄目! なんて反論されるか考えただけで、怖いもん」
焦った私の声に、さらに拓也が笑い出す。その横顔につい見とれてしまった。
整った顔立ち、きれいな笑顔。学校でたまに見かけていた、そして一昨日の夜、コンビニ帰りに送ってくれた飯島王子がここにいる。
昨日は、午後になって拓也と合流した。一見ただっ広くて迷子になりそうな草原だけれど、轍の道があるから合流は案外簡単だって初めて知った。拓也は先回りして牛車が到着するのを待っていたんだ。その時にはもうこんな感じで、苛立ったところは無く、私にもごく自然に接してくれていた。
「ほら、気をつけないと。爪先に力がいっている。踵にいつでも重心を落とす感覚でいて。でないと姿勢が前のめりになるよ」
「あ、はい」
慌てて姿勢を正しながら、私はこっそりと拓也を眺めていた。
確かに観賞用としては、こうして一緒にいる相手が王子なのは悪くないんだけどな。
説明できないもやもやとしたものが、私の中で渦巻いている。
一昨日初めて知り合って、その日のうちに喧嘩した。昨日の雰囲気も険悪だった。でもそれはお互いの感情を素直にぶつけ合ったからであって、決して否定的な、相手を拒絶するようなものではなかったつもりなんだ。だからこそ、今こうして素直に彼に乗馬を教わっているわけなんだし。拓也もだから普通に私に接してくれているんだと思う。思うんだけれどでも、今の彼には何かがどこか物足りない。なんだかひどく表面的な気がしてしまう。
「やっぱり二回分の人生の記憶があると、ひねくれちゃうのかなぁ」
気が付くと、そんな言葉を発していた。
「え、何?」
「何でもない」
慌てて小さく首を振ると、私は前方を見据える。
とりあえず、今は乗馬の習得が先。かな。
「お疲れ」
後方から牛車がやってきてゆっくりと止まると、中からヒコが降りてきた。
「どうだった?」
そう言って人の顔色を見ると、にやりと笑う。ああもう本当にこのメンバーは人が悪い。というのか、ひねくれたのばっかりだ。
「乗るというのと乗れるというのの差を、嫌でも思い知らされました」
それだけ言うと、大地にごろんと横たわった。
「疲れたーっ」
牛車がやってくるまでの約二時間、ひたすら馬に乗っていた。最初は曳き馬で牧歌的な雰囲気に浸っていたけれど、その後からがまさに特訓だった。ただただ馬に乗り、歩かせて走らせる。本当に、ただそれだけ。
遠くから牛車のやってくる影が見えて、昼休みを取るから馬の鞍を外そうと拓也に言われたときは、心底ほっとした。
「マッサージ、こまめにしておいた方が良いぞ。あっという間に筋肉痛になるから」
「本当?」
拓也の忠告に慌てて上半身を起こす。すでにもう体がぎしぎしいっているのに、これ以上筋肉痛になんかなっていられない。
「お疲れ様でした、ゴクとマゴク」
そんな私を横目で見つつ、美幸は二頭の馬達の鼻面を優しく撫でた。本気で言っているのか嫌味のつもりなのかちょっと判別付きにくいけれど、私の気持ちも同じなので、とりあえずその言葉には同意する。
「特にマゴクには迷惑かけました」
立ち上がり、一緒に鼻面を撫でた。
大体三十分を目安にして、休憩を入れる。休憩は私の体と集中力のためだけれど、私担当のマゴクの気分転換も兼ねていたんだと思う。マゴクにしてみれば、ただ拓也の指示にしたがって私を乗せて歩くだけなんだもん。途中で飽きて苛付いてくるのがよく分かった。
「単に乗るだけなら初めてでも簡単に出来るけど、自分の指示で乗りこなすのって遠い道のりだね」
指示を出している私をではなく、前方でゴクに乗って引率する拓也の反応を確認しながら行動にうつす。そんなマゴクを思い返し、ため息をついてつぶやいた。
「まだ始めて二時間のくせに、もう弱音かよ」
「違うよ。現実を知っただけ」
そんな私とヒコのやり取りを聞いて、ジハンが笑いながらなぐさめてくれる。
「ゴクもマゴクも初心者に適しているとはいえませんからね。旅のために体力のある若い馬を選んだんです。未経験者用の馬は、もっと歳がいったほうが良いですよ。そのほうが人が出す指示に慣れていて、大人しいですから」
その言葉に思いついて、何の気なしに聞いてみた。
「じゃあジハンも最初は馬に乗るのに苦労した?」
「え?」
ジハンが意外な事を聞かれたといった顔つきになって、目をしばたかせる。
「いや……。物心付く頃には乗っていたので、覚えていません」
「ジハンに聞いてもレベルが違いすぎるって。四歳になったら自分の乗る馬を自分で選ぶ慣習持っているんだぜ、ケレイト族は」
ヒコの解説にびっくりして、ジハンをまじまじと見つめてしまった。
「秋の大祭の草競馬に出場できるのが、五歳からなんですよ。なので、それに合わせて馬を選んで練習を始めるのが四歳からなんです」
「えーっと、馬が」
日本の競馬は、確か二歳馬からデビューだったはず。
少々混乱してそんな事を思い出しながら聞き返したら、あっさりと訂正されてしまった。
「ではなくて、人が」
馬に乗るってレベルが、本当に違いすぎる。思わず口をぽっかりと開けてしまった。
「私達草原の民にとって、四歳というのは特別な歳なんです。四歳になって初めて名前も付けてもらえるし、馬も与えられる」
「それまで、名前無いの?」
「赤ん坊に名前を付けると、早くに死んでしまうと恐れられているんです。風の精に名前を覚えられて、さらわれてしまうってね。だから四歳になるまでは、幼名といって仮の名前でしか呼ばれないんです」
そう言って微笑むジハンの目が、どこか遠くを見ているようだった。
「そうだ。私の名前はアクタに付けてもらったんですよ」
「アクタ?」
って、私?
確認するように自分を指差すと、ジハンがうんうんと何度もうなずく。
「当時アクタが乗っていた馬の名前を貰ったんです」
「馬の名前?」
「大祭の競馬に二度も優勝した、優駿です。みんなから羨ましがられました。この名前は、私の誇りです」
「はぁ……」
いかに馬が生活に密着しているのかがわかるエピソードではあるけれど、あまりにも自分の育った環境と違いすぎて上手く反応できない。しかもその名前付けたの、前世の私って。いくら思い出そうとしても、実感がわいてこないよ。
「とりあえず、昼にしよう。ほら、お茶」
「へ? あ、ああ。ありがとう」
拓也にうながされ、茶碗を受け取った。美幸がボウルに盛ったチーズと乾パンを回してくれる。
三度の食事は基本的にチーズと乾パン。夜はこれに追加してジハンお手製の干し肉で出汁をとったスープが付いた。基本的に肉は冬食べるものであって、夏の今は乳製品がメインなんだって。
質素なんだけれど、まだこちらに来て日が浅いせいか、特に不満はない。体はどんどんこちらの生活に馴染んでいくのに、肝心の記憶はぽっかりと抜けたまま。なんだかちょっとアンバランスな感じだ。
「午後も同じくらい練習するから、今のうちに体ほぐしておいた方がいいよ。特に股関節と足首は柔らかくして」
つい考え込んでしまいそうになったけれど、拓也の言葉で現実に戻った。
「はーい」
返事をしながら、ためしに足首を回してみる。そんな私を見て美幸が楽しそうにふふっと笑った。
「今日だけで、お尻の皮剥けちゃいそうだよね」
「え? 剥けるのっ?」
「うん。すれるから。やっていくうちにお尻にタコとかできるもん」
「本当?」
慌てて他の人間を順繰りに見てみたら、全員苦笑いとか思い出したかのように遠い目をしていた。
「慣れないうちはな、仕方ないんだよ」
「本気で言ってる?」
「本気本気」
美幸ともども、ヒコも妙に楽しそうな顔をしている。予想される結果を楽しみにしているっていう表情。
「嫌になった?」
美幸に聞かれて思わずしかめっ面をしてしまったけれど、でも嫌になるってことはなかった。
「体は慣れていないからきついかもしれないけれど、やっていて楽しいよ。それに、ここにいる以上出来なきゃいけないことだしね」
そう言いながら、ついにんまりと笑ってしまった。やっぱり体を動かすのは、面白い。まだ始めたばかりで全然上手くできないけれど、だからこそ頑張ろうって思えてくる。
「きついのもひっくるめて、楽しむのが一番だからね」
そう言って、拓也が片目をつむって笑って見せた。見事な、ウインク。相変わらず様になる。不意打ち喰らったみたいになって、ついどきっとしてしまった。
午後からも引き続き乗馬の特訓をして、お陰で夜はぐっすりと眠れた。私と美幸、女の子チームは牛車の中。後の三人は牛車の横に、フェルト製の天幕を張るだけの簡易テントを設置して、野宿をする。
翌日、翌々日ももちろん練習をしたけれど、一日に一度は池や河に立ち寄って、水の補給をした。洗濯や水浴びなんかも、このとき一気にやってしまう。道は要所要所で給水ポイントに出るように出来ている。さすがだ。
「オボ山からの水脈がいくつかあって、それに沿うように道が作られているんだよ。これから行くハダクの丘の下にも、水脈が流れている。雨乞いをするのに適した場所だよ」
そんな拓也の説明に感心をしてしまった。道も祭りの会場も、適当に場所を決めているわけではないんだ。
「気にも性質があるから。ハダクの丘には、水の性質を持った気が満ちている。そういうところは雨を呼びやすいんだ」
「どうやって分かるの?」
「どうやって、って言われても。分かるとしか言い様が無いよ」
たずねると、拓也は困ったように眉を寄せた。まるでこの間のジハンのよう。当たり前に出来ている事を今更説明する難しさに、戸惑いを感じている表情だ。
「具体的に目に見えるものなの? それとも只なんとなくそんな気がするとか」
重ねて聞きながら、まるで怪談話でも聞こうとしているみたいだって思ってしまった。自分には分からない、感覚の世界。悔しいのは現在ここにいる人達の中で、私だけがそれを共有出来ていないってこと。
「目には、見えるよ。空気のうねりみたいなそんなものが」
「うねり?」
「風だったり気流だったり、あと空間の歪みにも見える。キョエンは歪みだな。性質に関しては、それを見れば分かるとしか言えないけど」
「はぁ」
うねりも風も歪みも、ものが空気だったら普通は具体的に「見える」とは言えないものなんじゃないのかな。
結局良く理解できないままうなずいたら、拓也の目線が一瞬下に落ちた。
「拓也?」
「さあ、休憩お終い。練習始めよう」
そう言って、にっこり笑う。もうこの話はお終いと宣言されたのと同じだ。
「……うん」
それ以上私も話を続けられなくて、うなづいてしまった。
こんな感じで、午前中はいつもどおりに給水と練習をしていた。けれど予定では、ハダクの丘に辿り着くのは五日目の今日のはず。どうするのかなと思っていたら、練習もさすがに午後は無いまま移動を続けた。私と美幸が荷台に揺られ、拓也とヒコが馬に乗る。
単調な揺れにうとうととしかけたところ、ジハンの犬チャイグの吠える声が聞こえてびくりとした。
「どうしたの?」
美幸に問いかけながらジハンの肩越しに先方を見つめると、山羊と羊らしい群れが見えてきた。