遠い記憶
1.風の章
その二
まるで勢いよく引き上げられるかのように、急に意識が鮮明になった。
レジ袋を握り締め、ひざまずいた自分がいる。でも周りは妙に暗くて、先ほどまでいた飯島君の姿が見えない。
「何? ここ、どこ?」
パパ!
廊下でうたた寝をしながら待っているだろう父親を思い描き、涙が出そうになる。不安で体が震えていた。
こらえるように顔を上げると、そこで初めて夜空の星に気が付いた。煌々と輝く月と、それに負けずにきらきらと、ガラスの粒をちりばめたような星々の美しさに息を呑む。
さっきまでの、当たり前のように反射し明るかった夜空なんかじゃない。真っ黒い闇の中、星が無数に輝いている。そしてそれは箒で掃き集めたように、一筋の流れになっていた。
天の川。
初めて見る。プラネタリウムの中に放り込まれたようだった。
「ここ、どこ……?」
自分の生活からあまりにもかけ離れた光景に、少しずつ戸惑いの方が強くなる。まるで夢でも見ているみたい。
コートのポケットの中、無造作に突っ込んだままの携帯電話に手を伸ばす。すがる気持ちで電波の状況をチェックするけれど、「圏外」の表示にため息をついた。見慣れた人工の明かりが一つも無いこの場所で、唯一頼りになる携帯電話の画面の明かり。けれどいつまでも見ていたら、電池が消耗してしまう。
携帯電話をポケットに戻すとそっと立ち上がり、もう一度辺りを見回す。今度はなんとなく周りの景色が浮かび上がってきた。闇に目が慣れたせいなのかな。月明かりでもとりあえずここがどんな場所だかは、把握が出来そう。
体育館ほどの空間を、囲むように白い柱が建っている。その奥には壁。壁と柱の間は通路なんだろう。手前には潅木が植わっていた。
ちろちろという水音に気が付いて振り返ったら、崩れかけた噴水が背後にあった。どうやらここ、中庭の真ん中みたい。
目を凝らすと壁も噴水と同様に、ところどころが崩れている。なんだか廃墟のようだった。
「飯島君、どこにいるの?」
心細さに呼びかけてみるけど、自分の意に反して声はつぶやき程度の大きさしか出ない。その時になって、ようやく喉がからからに渇いていることに気がついた。緊張で、唾も出ない。
慌ててレジ袋の中のペットボトルを取り出した。非現実的な状況の中、普段飲み慣れた飲料があるというだけでもほっとする。少しだけのつもりがかなりの量のオレンジジュースを飲み込んで、ようやく渇きがおさまった。慎重に蓋をして、もう一度周囲を見回す。
「飯島君!」
さっきよりも大きい声は出たけれど、状況は変わらない。誰の気配も、何の気配もしなかった。
「ここ、どこよ……」
一体何度目になるのか分からない言葉をつぶやく。しばらくぼんやりと突っ立っていたけれど、少しずつ焦りが浮かんできた。
空気は澄んでいるけれど、寒くは無い。むしろ着込んだコートの中、じわりと嫌な汗が吹き出ている。でもそれは暖かさのせいではなく、緊張感のせいだ。月明かりで照らされて、この中庭だけが唯一景色を確認できる場所なのに、心はもっと暗いところを求めていた。
この空間の真ん中に、無防備に立っているのが怖い。途切れがちなのにいつまでも流れている、噴水の中途半端な水音も神経に障っていた。ここは、長くいてはいけない場所だ。
でも、どこに? どこに行けばいいの?
そう自問した途端、ざあっと風が吹き抜ける。
「……あっち?」
風が通った方、正面をあらためて見つめたら、奥に向かってぽっかりと壁が無くなっていた。もしかしたら、最初から通路の入り口か何かだったのかもしれない。
奥に行けば、月の明かりも差してこない。真の闇の中に入るのが分かっていながら、私はそちらに向かって歩き出した。
この場所に留まることは、出来ない。
空気がよどんでいるから。風の抜けるところに向かっていかないと。
覚悟を決めて踏み込んだ通路だったけれど、手探りで壁伝いに歩くと何メートルかで直角に折れ曲がり、曲がった先は意外にも明るかった。右手が最初壁だったけれど、すぐに切れて外廊下にかわっている。そこから月の光が差し込んできているんだ。
とりあえずそこまで辿りついて景色を見てみたけれど、木が生えていたり別の建物の影が見えたりで、ここがどんなところだかはよく分からなかった。建物は石造りでただっ広いけれど、屋根の形が真っ直ぐではなく反り返ったり出っ張っていたり、なんだか東洋的だ。お城というより、寺院を連想させる。そしてやっぱりひっそりとしていて、人の気配はしない。
左手の内側は、いくつもの部屋になっていた。扉が閉まっている部屋もあるけれど、開いていたり、扉そのものが無い部屋もある。そのうちの何部屋かをのぞき込んだら、内部はかなり荒れていた。寝台とかタンスとか、多分そんな家具だと思われるものが朽ちて転がっている。あとは妙にがらんどうの、家具がごっそりと無くなっている部屋だとか、火事でもおこしたみたいに煤けた部屋だとか。どの部屋も主に捨て去られた雰囲気をかもし出していた。
かつんと爪先に何か当たる感触がしたので、拾い上げた。
「陶器の、欠片?」
目をこらし、明かりに透かして見てみると、植物の文様が精緻に施されているのが見て取れる。
木製の扉に細かく彫られている唐草模様や、部屋に転がる家具や道具類。それらの意匠はやはり東洋的。でも建物自体は石で造られているから、和ではなくて、もっと大陸の匂いがする。
月明かりの下、廃墟を一人で回って怖くないはずが無いのに、なぜだか恐怖よりも悲しさのほうが次第に沸き起こっていた。ここに人がいないのが、こうしてこの建物が打ち捨てられているのが、ひどく寂しい。
辺りを見回しながらゆっくりと進み、突き当りを左に折れ、すぐ横の扉から中に入った。いい加減、夜目が利いてきたせいか、つまずかずに歩くことが出来る。でもこれは差し込む月明かりだけのせいではないと思う。
埃っぽい部屋の中、正面と左の二方向に扉がある。なぜか私は迷うことなく、そのうちの左の扉を開けて、さらに奥へと入っていく。初めて訪れる場所のはずなのに、どの扉を選べば良いのか、どこに行けば良いのかなんとなく分かりはじめていた。
少しずつ目が覚めていくような、思い出してゆく感覚。まだはっきりとは自分でも説明は出来ないけれど、ここからどこに行けば良いのか、自分の体が知っている。私はただ、何も考えずに歩けば良いだけ。
複雑な迷路を抜けるように扉を選択し、部屋を抜け、また通路を渡り、そんなことをしているうちに、私の耳に微かに風のうなり声が聞こえてきた。
あそこに、行かなくちゃ。
今までそれを探していたかのように、風のうなる方に向かって歩き出した。でもそれは少しずつ小走りに変わってゆく。気持ちが急いていた。行ってこの目で確かめたいものがある。それが何であるかは、行けば分かる。
風の音を頼りに辿り、何気ない小さな扉をくぐるように抜けると、急に天井の高いがらんどうの広間に出た。確認するように右側を振り向くと、人が十人はいっぺんに抜けられるほどの巨大な扉が開け放たれたままになっている。ここが、この広大な建物の入り口だった。多分、最初の中庭は、この建物の後ろ手に位置しているんだと思う。
扉の正面、私の左側を見てみると、広間の半分から奥を区切るように柱が等間隔に立っていた。柱の向こうは腰の高さまである柵が置かれ、明らかにこちら側から隔離されている。お寺の本堂によく似た作りだ。そして最奥には、仏像の代わりに天蓋付きの台座が。
「見つけた」
息を切らしながらつぶやいて、ふらふらと台座に向かって歩いていく。もはや月の光など届かない奥なのに、台座はぼんやりと光って見えた。建物の中だというのに、風は一歩進むごとに強くうねり、ごうごうと音をたてる。
自分でも、よく分からなかった。なぜこんな見知らぬ異国の建物にいて、何かを見つけ、そこに向かって歩いているのか。
でも、ただ確かめたい。あの台座には何が安置されているのか、何が祀られているのか。それが知りたい。
今しも柵を越えようと手をかけて、跨ぐために片足を上げる。
「何も無いよ」
背後から声がして、ぐいっと肩を掴まれた。
「きゃあっ!」
予想もしなかった自分以外の存在に驚いて叫んだ後、派手に転んでしまう。
「玉座に一人で向かうか? さっすがケレイトの末裔はやることが無謀だよな」
呆れたような声に顔を上げると、そこには二人の男の子が立っていた。
「これ以上は近付いたら危険だ。また死ぬよ」
「飯島、君……」
二人のうち、見覚えのある顔の方に安心して、名前をつぶやく。急に力が抜けて、涙があふれてきた。
「何で、すぐに現れなかったのよ」
慌てて手の甲で涙を拭い、抗議する。安心した反動で、素直になれない。この訳の分からない状況に混乱もし、苛立っていた。
「さすがに到着地点までは予測できなかった。悪かったよ。でも、ここで待っていればアクタなら必ず来ると思ったから」
「まさか一人で玉座に近付こうとするとは思わなかったけれどな」
当たり前のように会話に参加してくるもう一人の存在にあらためて気が付いて、思わずじっと見つめてしまう。
襟のついた袷(あわせ)の着物。筒の袖。腰には帯。この格好って、モンゴルとかそっちの民族衣装によく似ている。そういえば、この建物もそんな感じだ。石で出来ているわりに西洋のお城ではなく、どこか中華というのか、大陸的な雰囲気。けどこの人、普通に日本語喋っているよね。
「ここ、どこ?」
あらためて最初からの疑問が沸き起こり、口にした。
「キョエンの斎場」
「さいじょう?」
飯島君の言葉をそのまま繰り返す。キョエンが地名なことはなんとなく分かるけれど、さいじょうが上手く漢字に変換できない。
「玉を祀る場所だよ。今、自分で突撃かけただろ?」
「ぎょくをまつる?」
ぎょくって、玉のギョク? 祀るから、斎場か。ってことは、
「神殿みたいなもの?」
だから建物全体の雰囲気とか、ここもお寺の本堂みたいな造りなのかな。
「そう思ってくれていいよ」
なんだか流すような言い方だった。でも私もこれ以上聞いても分からなくなるだけだと思うから、別の気になる事柄を質問する。
「それでなんで私、ここにいるの? 飯島君達は何者なの?」
意識が戻ったら、いきなり自分の住んでいる場所から遠く離れた場所にいた。そんなのちょっとおかしすぎる。
ごくまっとうな質問をしたはずだと思ったのに、今まで黙って聞いていた男の子が私を無視し、唐突に飯島君に質問を重ねた。
「ジン、こいつまだ記憶戻ってないの?」
「多分」
あっちゃー。ってため息交じりの声がして男の子が歩き出す。
「最後に現れて、なおかつこれかよ。……とりあえず、ここから出ようぜ。玉も無いのに長居は無用だ」
二人の話す内容についていけず、床にへたり込んだままで交互に見ていた。そんな私に飯島君が手を差し伸べる。
「立てる? ここから出るよ」
素直にその手を掴み立ち上がろうとして、気が付いた。足に力が入らない。
「飯島君。腰、抜けた……」
はは、って笑ってみたけれど、気分は最悪だ。なんだかまた無性に泣きたくなってきた。飯島君はそんな私をちょっと黙って見つめてから、いきなり脇に手を差し入れる。
「え?」
ふっと体が浮いて、彼の肩に私の上半身が乗りかかった。
「担いでいくよ。そろそろここから出た方が良いし」
「えっ? でも」
「オーロ。アクタの荷物、持ってやって」
私の重さをものともせず、飯島君が歩きながら声をかける。オーロと呼ばれた男の子は振り返ると、私が握り締めていたレジ袋を取り上げ中身を覗いた。
「オレンジジュースに牛乳、ベーグルサンドに雑誌と、お、これコンビニ限定のポテチじゃん。これ、俺にも後で食わせて」
そう言って、にやりと笑う。飯島君は構わず正面の扉まで歩くと、ようやくそこで立ち止まった。なんか本当に、荷物になった気分だ。いやここでお姫様抱っことかされても困るけれど。
恥ずかしさに一人でぐるぐると考えていたら、肩からそっと下ろされた。
「立てる?」
「あ、なんとか」
一人で立とうとするのだけれど、まだちょっとふらつく。飯島君はごく自然に片手を私の腰に回し支えると、オーロに向かって呼びかけた。
「ここから飛ぼう。待ち合わせ場所までは遠い」
「いいけど、アクタがついて行けないだろ」
「俺が連れて行く」
「出来んのか?」
「斎場の力を借りる。多分大丈夫」
私には理解の出来ない会話。でもそれよりもなによりも、学校のアイドル飯島王子に寄り添い抱えられている状況に気を取られて、二人の話しを聞くことすら出来ない。そのうちのぼせて貧血でも起こすんじゃないかと思っていたら、ふいに飯島君にささやかれた。
「ここを良く見ておいて」
甘さが微塵も感じられない、声の硬さにはっとした。
「ここ?」
慌てて広間に視線を移す。がらんとした、ただっ広い空間。開け放たれた扉から月の光りが差し込んで、私達三人の影が長く伸びる。奥の台座は相変わらずぼうっと光り、風が中で吹いていた。
「ここに、俺達はもう一度帰ってくる」
深く、静かな声だった。
「……この場所は、なんなの?」
「キョエンの斎場」
オーロが台座を見つめながらつぶやいた。
「玉を祀る神聖な場所。そして、俺達はここで殺された」
「え?」
とっさに聞き返した途端、ぎゅっと強く抱きしめられる。
「行こう」
風がうなりをあげる。コンビニからの帰り道、この場所に来る直前みたいに、体から力があふれてくる感じがした。視界がゆがむ。足元がぐらぐらと揺れる。
そして次の瞬間、私達は草原の真ん中にいた。
「何、これ?」
またもやふらついて、たまらずにひざまずいてしまう。飯島君とオーロが平気な顔をして立っているのをぼんやりと見ていた。
「酔った?」
「え?」
「慣れればそのうち平気になるから」
「……全っ然、意味分かんない」
さっきからずっと続く中途半端な会話に、いい加減嫌になっていた。
「きちんと説明して。ここはどこ? 飯島君とオーロは何者? なんで私はここにいるの? それと今の。今のは、何?」
言いながら、だんだんと怖くなってきた。さっきまで斎場と呼ばれる建物にいたのに、なんで一瞬の後にこんな外にいるんだろう。ううん、それよりも前。そもそも私はコンビニにおつかいに行って帰ってくるはずだったんじゃないの?
斎場の中、何かを思い出しかけて彷徨った自分にも、薄気味悪さを感じる。まるであれは夢遊病者のようだった。台座を見て何が祀られているのか確かめなければならないなんて、一体どこからそんな考えが沸いたんだろう。
「この状況は、何?」
無意識のうちに、自分の体を抱きしめていた。顔を上げると、飯島君が私を真っ直ぐに見下ろしている。その表情は無愛想で、家まで送るといったときのようなにこやかな顔じゃない。でも、あの表面的な作られた表情ではない分だけ、今のほうが信頼することが出来そうな気がした。
「教えて」
ぐっと挑戦するように、飯島君をにらみつける。にこやかな笑顔ではぐらかされるのは、ごめんだ。
「ここは、今までいた世界とは別の世界。別の理で動いている。俺達は前世、ここの世界で生きていた。俺はサイムジン・ハング。オーロと呼んでいるのはオロム・アルスン。成田さんは、アクタ・ケレイトア。訳あってキョエンの斎場のあの広間で殺されたけれど、やり残したことがあってここに戻ってきた」
「……何、それ?」
あまりにも突拍子のない説明に、ぽっかりと口が開く。信頼できそうと思ったのもつかの間、前世とか殺されたとか、かなり話がいっちゃっている。
「余計訳がわかんないよ」
「話すと長くなる。成田さんが思い出してくれれば簡単だよ」
その突き放したような言い方に、かちんときた。
「冗談言わないでよ。思い出せって、何をよ」
「過去を。前世で何が起こったのかを、全部」
「そんなの思い出せるわけないでしょ。なんなのこれ? 誘拐? うち、そんなにお金持っていないから」
「なんでそうなるんだよ。思い出せよ。ここまで自力で来ただろ?」
「連れてきたのは飯島君でしょ」
「俺だけで来られるわけないだろ。風の力を借りてこの世界まで来たのは、あんただよ」
「そんなの」
知らないっ。と言いかけたところで、ばさっと布が被さった。
「うわっ。な、何?」
「喧嘩はそろそろ終りにしろよ。寝るぞ」
「え?」
オーロの声に、呆気に取られる。
「寝るって?」
「夜明けまであと数時間はある。朝になれば迎えが来るはずだから、今は寝ておいたほうが良い。ここの生活、結構ハードだからな。初日から飛ばすと後が辛いんだよ。ってことで、ほら毛布」
そのマイペースな説明に、ぼんやりと毛布を見つめてしまった。
「コートは脱いだ方がいい。寒くなったら上から掛けることが出来るから。毛布は体に巻いて。アクタ真ん中な。くっついて寝るぞ」
「ちょっと待って。何でっ?」
「冷えるんだよ。半端無く。夏だから野宿できるけど、あとふた月もしたら移動も厳しい。お前来るの、遅いんだよ」
なんだかよく分からないけど、どうも私が責められているらしい。どう抗議しようかと悩んでいたら、いつの間にか言われたとおりに二人に挟まれて、ごろんと大地に横たわっていた。
「じゃ、お休み」
そう言うと、オーロがさっさと寝息を立てる。
「え? ちょっと」
この人、やたらに寝つきが良い。
本格的に寝入ってしまった人間にいつまでも抗議するわけにも行かず、諦めて星空を見つめた。結局私、自分の置かれた状況を何一つ分かっていない。
「詳しい説明は、起きてからするよ」
左側から飯島君の声がぽつりと聞こえた。
「……分かった」
小さくつぶやき返して目をつむる。
いきなり色んなことがあったせいかな。こんな状況で寝れるわけが無いって思っていたのに、急に睡魔が襲ってきた。
「おやすみ」
「……うん」
さっきまで険悪な雰囲気だったはずなのに、飯島君の挨拶に素直に返事をしてしまう。そしてそれを最後に、あっという間に私は眠りの世界に落ちていった。