ギュータサガ
GUTA SAGA


 ギュータサガにはタイトルがなく、ギュータ法のおまけである。19世紀にCarl Säveによってこの名がつけられた。おそらく成立は1220〜1330年ごろであろう。


 初めにシエルアル(Þieluar)という男がゴトランド(Gutland)を見つけた。その時、かの島は魔法がか けられており、それ故に昼は沈み、夜は浮き上がるのであった。しかしその男は最初にかの島に火をもたら し、そうして二度と沈まぬようになった。
 このシエルアルにはハヴシ(Hafþi)という息子がおり、ハグシの妻はフイタステルナ(Huitastierna)と 言った。夫婦が最初にゴトランドに住み着いたのであった。最初の晩に彼らは共に寝床に着き、彼女は夢を 見た。3匹の蛇が彼女の子宮の中で絡み合い、彼女の膝から這い出てくるといった夢であった。彼女はこの 夢を夫に伝えた。
「環で全てのものが縛られる。この島に人が住み着くだろう。3人の息子を授かるだろう。」と夫は言った 。
そうして彼は生まれる前に3人の息子の名前を付けた。
「ギューティ(Guti)はゴトランドの要求し、グライプル(Graipr)は2番目に、グンフィアウン(Gunfiaun)は 三番目に。」
 長男のグライプルは三分の一の北部に、次男のギューティが三分の一の中央部を、三男のグンフィアウンが 三分の一の南部といったふうに、彼らは後にゴトランドを三分割した。長い年月をかけて彼ら3名からゴト ランドの住人が増え続け、やがて島は皆を養うことができなくなった。そうして島民は三人に一人の割合で この島から動産を持って退去させるという決まりを行ったのであった。だがその者達はしぶしぶ島を出て、 ソルスボルグ(Þorsborg)に行き、そこで暮らしたのであった。後にこの島の住人達はこれに忍ばず、 彼らを追い出したのであった。
それから彼らはフォーロ(Faroyna)に行き、そこに住みついた。彼らはそこで食べてゆくことができず、ダー ゴ(Dagaiþi)というエストニアのむこうの島に行き、土塁を築いたのであった。
 彼らはそこでもなお暮らすことができず、ドヴィナ河(Dyna)を川伝いに旅をして、ロシア(Ryzaland)を抜け たのであった。彼らはビザンツ帝国(Griklanz)に至ったのであった。そこで彼らは「満ち欠けする間」(um ny ok niþar)」ビザンツ帝国で暮らす許しを乞うたのであった。皇帝はこれを一月以内と考え、これ を認めた。一ヵ月後、皇帝は彼らに退去するように命じた。だが彼らは「満ち欠け」とは「永遠に(e ok e) 」を意味すると答えた。この議論はついには皇后の聞き及ぶところとなった。そして皇帝を説き伏せ、彼ら は暮らすこととなった。そしてこの上に彼らはいくつかの母国語を使い続けたのであった。
 昔々、人々は墓(hult)と塚(hauga)、聖域(vi)と古の場所(stafgarþa)、そして異教の像(haiþin guþ)を崇めていた。彼らは息子や娘、家畜、それと共に食料やエールを捧げた。彼らは真の信仰を省 みなかった。島をあげて三つの地区全てで最も盛大なる人の供犠(hoystu blotan)を行っていた。だがより小 さなシングででは家畜、食料、酒といった供犠が行われたのであった。共に捧げられた食料を皆で調理する ので、これらには「湯で仲間(suþnautar)」といわれるものもあった。

 たくさんの王達はゴトランド島が異教の神々を崇めている時に軍事遠征した。だがゴトランドの島民らはい つも勝利を収めて、自らの権利を守ったのであった。後にゴトランド人らはスウェーデン(Suiariki)にたく さんの使者を遣わせたのだが、誰一人としてアルヴァ教区(Alfa sokn)のアヴァイル・ストラバイン(Avair strabain)より前に折り合いをつけられなかった。彼はスウェーデン人の王と最初に折り合いをつけた人であ る。
 彼はゴトランドの島民らの依頼を受けてスウェーデン王に折り合いを着けに行った。彼は賢く、多くの事柄 に長けていたので、スウェーデン人の王との協定を結んだ。ゴトランドの島民らに毎年60銀マルクが課せら れ、その内40銀マルクがスウェーデン王の取り分で、ヤールが残りの20銀マルクを収めたのであった。アヴ ァイルは出発前に島民らとこれについて取り決めていた。こうしてゴトランドの島民らはスウェーデン王の 配下となり、スウェーデン内を自由に行き来する権利と通行税やそれ以外の税の免除を認められたのであっ た。だが穀物の交易とそれ以外の禁止事項以外があり、同じようにスウェーデン人もゴトランド島でそのよ うな権利を持つことになった。王はゴトランドの島民の保護と援助の義務を負うことになった。王とヤール はゴトランドの大シング(gutnalþing)に使者を派遣し、そこで徴税を行わさせたのであった。ゴトラ ンドの島民らはウプサラ王の配下であれば島外に自由に行けることが宣言された。
 後に聖オーラヴ王(helgi Olafr kunungr)がノルウェイの艦隊を引き連れて故国から逃れて島のアケルガルン (Akrgarn)港に停泊した。聖オーラヴは長らくそこに留まり、ヘジュヌム(Hainaim)のオルミカ(Ormika)と数 名の権力者達が贈り物を携えて訪れた。オルミカは高価な品々と共々、12年物の雄羊を差し出した。聖オー ラヴは2個の杯と戦斧をお返しとして渡した。オルミカは続いて聖オーラヴの教えを受けて改宗し、サガが 書かれた当時あったアケルガルン教会と同じ場所に小礼拝堂(bynahus)を建設したのであった。そこから聖オ ーラヴはノブゴロド(Hulmgarþi)のヤロスラウ賢公(Ierslafs)のもとへと向かったのであった。

 ゴトランドの島民らは古の神々を崇めていたのだが、彼らはキリスト教の国々、異教の国々と全ての国と交 易するために帆を掲げたのであった。そうして商人らはキリスト教の国々でキリスト教を知ることになった 。数名の者達は洗礼し、司祭をゴトランド島に連れてきたのであった。
 アケベックのボタイル(Botair af Akubek)が最初に教会(kirkiu)を建造し、そこはサガが書かれた当時はク ルスターザ(Kulasteþar)と呼ばれていた。しかし島民らは我慢できずに燃やしてしまった。しかしそ の名は残り、後にそこの聖域ヴェー(Vi)で供犠(blotan)が行われたのであった。ボタイルは2棟目の教会を 建設した。島民らはまたしても焼き落としたいと思ったのだが、ボタイルが教会のてっぺんに上って、自分 もろとも焼いてみろと島民らに叫んだのであった。彼はステンキルカ(Stainkirkiu)に住むリッカイル・スニ エッリ(Likkair snielli)という最高権力者の娘を妻にしていた。そして彼は婿のボタイルを支援して、島民 らを諭し、教会は燃やされずに済んだのであった。諸聖人の名をもって設立され、今や聖ペテロ教会(Petrs kirkiu)と呼ばれるのであった。これはゴトランド島に最初に教会が設立されることが許された教会である。
 しばらくして義理の父のリッカイル・スニエッリとその妻とその子供達と使用人らが洗礼を受け、彼は自分 の農場内に教会を建造し、そこはステンキルカと呼ばれた。そこは北部三部区(norþasta þriþiungi)で初めて建造された教会である。ゴトランドの島民らはキリスト教の慣習と出会い 、神の御意志と司祭の教えに従ったのであった。そうして圧力なしにキリスト教が一般に普及したのであっ た。誰も強要されなかったのであった。
 キリスト教が普及した後に、アトリングボー(Atlingabo)2棟目の教会が建造された。中部三部区 (miþalþriþiungi)に初めて建造されたのであった。それから3棟目が南部三部区 (sunnarsta þriþiungi)のファルズヘム(Farþaim)に建造された。それらからゴトランド 島内に次々と教会が建造されたのであった。
 ゴトランド島が司教を配す前に、エルサレム(Ierusalem)巡礼者の司教達がゴトランド島にやってきた。その 時、エルサレムへの南方ルートはロシアとビザンツ帝国を経るものであった。教会建造を促した者達の要望 により、教会と墓地が聖別された最初の地である。
 ゴトランドの島民らがキリスト教徒になってから、リンチョーピン(Leonkopungi)の大司教(hoygsta biskups)へ伝言を送った。司教は3年ごとに12名の者らを引き連れて、訪れることになった。
 こうして司教は教会の聖別と、教会の聖別に必要なだけの3度の食事と3マルクの物品での支払いを受け、 ゴトランド島中を旅する義務を負ったのであった。というのは、一つの祭壇の聖別だけにも、12のエールと 1食が必要だった。だがもし祭壇と教会が一緒に聖別されなければ、両方を聖別するのに3度の食事と3マ ルクが必要であった。司祭の二人に一人から司教は訪問税として物品での支払いとして、3度の食事だけ提 供されるのであった。その年に物品での支払いをしなかったもう一人の司祭からは司教は報酬を教会の設立 として受けるのであった。この時に物品で支払えなかった者達は、3年後に司教が訪れるとすぐに支払うの であった。前回に物品で支払った以外の者達は報酬を支払う義務がある。
 司教が判断すべき議論が持ち上がると、彼らは同じ3年目に解決するのであった。もし彼らが解決できなけ れば、全ての者達の助言をもとにする。司教が裁くべく敵意と衝突が発生すれば、その者は司教の到着を待 ち、必要がなければ本土に行ってはならなかった。田舎の司祭が無罪を与えることができないというのは大 罪になる。それからある者がワルブルガの祝日(2月25日)と諸聖人の祝日(11月1日)(Valborga messur ok helguna messur)の間中旅をすることになり、しかしそれは冬の後ではなく、次のワルブルガの祝日までであ る。ゴトランド島の司教にとってすばらしきことは、3マルク以上ではなかった。

 ゴトランドの島民らは司教と司祭を受け入れ、永劫キリスト教を受け入れ、異教の国々へ対抗する軍事遠征 で、7隻の軍船でスウェーデン王に従うことになった。だが王は冬の後にゴトランドの島民らを徴兵のため に招集し、出陣日前に彼らに1ヶ月の休養を与え、さらに出陣日は真夏以前になった。その時それは法的な 召還であった。それからもしゴトランドの島民が望むのであれば、ロングシップと8週間の食料を持って旅 立つ選択をしたのであった。もしゴトランドの島民らが参加することができなければ、ロングシップ1隻に つき40マルクを罰金として支払うことになった。しかしこれは続く秋にであり、召還が行われた同じ年では ない。これは徴兵税(laiþingslami)といわれた。
 この召還棒(buþkafli)が1週間回され、シングが告知されるのであった。人々が遠征に合意すると、2週間の航海のた めの武装を行うのであった。その後に遠征前の1週間に召集された人々は準備をして、順風を待つのであっ た。もしその週に順風が吹かなければ、彼らは遠征の日から7晩まで留まった。もしそれでも風が吹かなけ れば、漕いで海を越えることはできないので彼らは義務を解かれて帰宅する権利を有したのであった。1ヶ 月以内の短い期間の召還では、彼らは行く必要がないが、咎めなしに自宅で待機したのであった。
 召還が不当になった、もしくは猶予期間に順風が吹かなかったことを王が快く認めなくば、聖ペテロの祝日 (Sankti Petrs messu)後すぐのシングに徴税に行くに王の使者らが、彼らが選出した12名の委員らから合法 的に自宅待機していた旨の誓いを受ける義務があった。
 任命の宣言は王の宣言は別としてゴトランド島で公示されることはない。主権を保持する王が国外に追放さ れるという事態が発生した場合、ゴトランドの島民は納税の義務はなく、これは3年間である。だが彼らは 毎年、徴税することを続ける義務があり、これを認め、3年後にスウェーデンをその時統治している王に支 払うのである。
 王の権限をもって封印された手紙は全ての王の法に関することを送り届け、これを開封されることなし。


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