Cecaumeni Strategicon
ケカウメノスのストラテギコンの中のハラルド苛烈王


ハラルドのビザンツ帝国内での活躍はなにもアイスランド・サガ中だけではないのである。非常に貴重な情報としてギリシャ(ビザンツ)のケカウメノスのストラテギコン中に納められている皇帝への助言(Λóγος υουθετητικóς)に彼の活躍が書かれているのである。これは1881年にモスクワの教会の書庫で発見された写本である。恐らくこれはミカエル7世の統治時代((1071年〜1078年)に書かれたと思われる。

アラルテス(ハラルド・シグルソン(苛烈王))はヴェーリングの皇帝の息子であり、そして兄弟がいた、イオウラヴォス(オーラヴ・シグルソン(聖王))で、彼は父の死後、先祖伝来の帝国を手に入れて義弟のハラルドに帝国内の彼の第二の者として約束をした。たとえ彼が若かろうと、出発を選び最も祝福された思い出の皇帝、パプラゴニア(黒海に臨み、小アジア北部にあった古代の地域名)のミカエル皇帝に服従し、ローマ軍のもとにきた。彼は500名の勇敢な男らの彼の軍団も引き連れてきて、町に入り、皇帝は適切に彼を迎え、彼を軍団と共にシチリアに派遣した。そこでローマ軍のために島を攻撃した。彼は進軍し、偉業をなした。シチリアが征服されると、彼は軍団と共に皇帝のもとに戻り、皇帝は彼に manglavite の称号を授与した。この後にデロス人らの反乱がブルガリアで勃発した。ハラルドも自軍と共に皇帝と進軍し、名門と武勇の敵に対して武力を行使した。皇帝はブルガリア人を征して帰還した。我もまた最善を尽くして皇帝の名代として働いた。我らがメシノポリティスに到着した時、皇帝は彼の好意への褒美として spatharocandidate の称号(宮廷の称号)を彼に授与した。ミカエル皇帝と彼の甥の治世の終焉の後、モノマコスの統治時代に、ハラルドは故国への帰郷を望み要求したのだが、許されなかったので出発は彼には困難であった。しかし、彼はひそかに逃げ去り、義兄のオーラヴの代わりに自国を治めた。彼は manglavite もしくは spatharocandidate の称号を与えられていたので不満を漏らさなかったのだが、それよりも、彼は統治している間に彼はローマ人に信頼と友情を持ち続けたのであった。

manglabites の役割は元々は皇帝の前を行く歩兵で、ベルトに宝石で飾られた鞭を着けており、群集を抑止するために用いたと思われる。この者は黄金の柄のある剣を着ける資格を持つ。 spatharocandidatus は大佐(連隊長)である。ハラルドの時代までにこういった高位のランクにまで外国人が登りつめるようになった。ヴェーリング軍の創立者と言われるバシレイオス2世の時代には Spatharius より上位にはフランク人やヴェーリングがいなかった。

ヘイムスクリングラの最高位の一つの位にまでハラルドは登りつめたというのはあながち誇大表現でもなく、こうして裏付けられると思われる。しかし、ヘイムスクリングラではギリシャ軍をも指揮し、総指揮官として活躍したかのように描かれているのですが、外国人が軍隊の総指揮官にはれないとのことなので、それは誇大表現であろうと思われる。

また、ヘイムスクリングラにはハラルドはギリシャの将軍とくじで野営地を決めるというエピソードがある。ハラルドがくじ引きに勝って、高台の野営地を手に入れ、ギリシャ軍は水はけの悪い低地に野営するというものである。くじびきそのものはお話を盛り上げる創作と思われるのだが、ギリシャ軍よりも高い場所で寝泊りするという描写はあながち創作とも言い切れないのである。ヴェーリングはコンスタンチノープルの宿舎では上階で寝泊りし、その下はギリシャ軍の宿舎であったのである。おそらくこの事がこのエピソードの元になったのであろうとの推測があります。

そしてヘイムスクリングラでではハラルドは皇帝の死後に宮殿に自由に出入りして、財宝をもちだし、これは慣例であったと描写されている。これはスノッリの誤解と思われる。スノッリは pólútasvarf (古アイスランド語)を「宮廷の戦利品」と理解した。これは徴税を意味するスラブ語から由来するものと推測されており、ヴェーリングは皇帝の命で徴税を行ったと推測される。おそらくハラルドもその任務についたと思われ、それがこの誤解を生んだのであろうとの推測がある。

ヴェーリングという単語は主として東方に向かったスカンジナビア人を指していますが、お話の中では北欧人そのものを指す呼称としてのニュアンスも持っていたりします。

(04/12/22)


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