[CRONINA REGUM MANNIE ET INSULARUM]
Incipiunt cronica regum mannie & insularum & episcoporum & quorundam regum anglie, scotie, norwegie.
これはマン島と諸島の王ら、司教ら、イングランド、スコットランド、ノルウェイの王らの年代記である。
我が主の人間化(西暦)1000年(1016年)にスヴェイン息子のクヌート王は全イングランドの主権を手中にした。その後、後継者のエドウィンが殺害された時、彼はエドムンド王の双子の息子のエドムンドとエドワードを死なせるためにスウェーデン人の王に送り出した。だが彼は無実の少年らを殺害するにはしのびなく、ハンガリーのソロモン王のもとへ彼らを送り出した。こうしてエドムンドの人生はそこで閉じたのである。エドワードは、修道女クリスチーナ、後にスコット人の女王のマーガレットと彼の後継者のエドガーをもうけることになる、ドイツ皇帝のヘンリーの娘のアガサを娶った。クヌート王は後にデーン人とイングランド人の王になるハルデクヌート、そして後にローマ人の皇帝のヘンリーと結婚する娘のグニルダをもうけるエマと結婚した。
1002年(1019年)にイングランド人とデーン人の王のクヌートはデンマークに向かい、壮麗に全冬を過ごした。
1003年(1020年)にクヌート王はイングランドに戻り、イースターの間にCirencesterで大評議会を催した。
1011年(1028年)クヌート王は50隻の船団でノルウェイに向かった。彼はかの地からオーラヴ(聖王)を追放し、かの地を支配下に征服した。
1012年(1029年)にイングランド人、デーン人、ノルウェイ人のクヌート王は帰宅した。
1013年(1030年)にクヌートに追放されたハラルド王の息子の聖オーラヴ王はノルウェイに戻り、ノルウェイ人らにより不当な死を受け、主のもとに旅立った栄光ある殉教者の名誉を受けたのである。
1013年(1031年)にクヌート王は大壮麗にしてローマに向かい、彼は聖ペテロに金銀の膨大な贈り物を差し出した。彼はイングランドの神学校のためにローマ教皇ヨハンから権利を得た。
1015年(1032年)に聖エドムンド王と殉教者の教会が奉納され、そこにクヌート王の司教らや貴族らの全体的な意見でクヌート王は世俗的な聖職者らを追放して僧を制定した。同年に消せなかった火事はイングランド中で多くの場所を焼き尽くした。
1017年(1034年)にスコット人の王のマルコムが死去した。彼はダンカンによってその王国を引き継がれたのであった。
1018年(1035年)にイングランド人の王のクヌートは死の前に息子のスヴェイン王をノルウェイ人の支配者にした。デーン人の支配には息子のハルデクヌートを据えそして息子をエマ女王に、そしてイングランド人の支配は(北)ハンプトンのElfwina生まれの息子のハラルドに据えた。後にクヌート王は11月13日にShaftesburyで生涯を閉じた。彼はウィンチェスターで古修道院で全ての式典をもって埋葬された。しかししばらくしてイングランド王国はハラルドとハルデクヌートの間で分割された。同年にノルマンディー公ローバートが没した。少年の彼の息子の私生児ウィリアム(ウィリアム征服王)が彼を継いだ。
1022年(1037年)にマーチャル人とノーサンブリア人の王のハラルドはイングランド全土を支配するために選ばれ、彼の兄弟のハルデクヌートはデンマークであまりに多くの時間を過ごしていたために退けられた。
1023年(1040年)にハラルド王はロンドンで死去してウェストミンスターに埋葬された。ハルデクヌートは彼を継いだ。
1027年(1046年)に聖オーラブ王の息子のノルウェイ王のマグヌス(善王)がデーン人の王のスヴェインが逃走した後にデンマークを征服下にした。
1028年(1047年)にマグヌス(善)王はスヴェインと戦い、彼をデンマークから追放してその地を支配した。しかししばらくして彼は死去した。
1029年(1048年)にスヴェイン王はデンマークを再び取り戻してシグルズ王の息子のハラルド・ハルファグル(ハラルド苛烈王)がノルウェイを取り戻した。彼は羨望によりイングランド王と和平した。同年にそこで大地震があった。
1035年(1054年)にエドウィン王の命のもとノーサンブリア人の首領のシグルドが大軍団でスコットランドに侵攻し、スコットランド王のマクベスと会戦した。彼は彼を敗走させて王(エドウィン王)が命じたような王にマルコルムを任命した。
1036年、1037年、1038年、1039年、1040年、1041年、1042年、1043年、1044年は記録するものはない。
1045年(1063年)北ウェールズ人の王のグリフィスが自らの臣民に殺害され、装飾品と共にその首はハラルド伯に送られ、やがて彼はエドワード王にそれを持ち出した。エドワード王は彼の(グリフィスの)2人の兄弟にその地を与えた。1046年(1065年)である。
1047年(1066年)にイングランドの王の信心深い追憶のエドワード(エドワード懺悔王)が死去した。彼は存命時はインランド人の栄誉と栄光であり、彼が死去した時にそれらは破滅したと彼について語られている。
ゴドウィンの息子のハラルドが王国を引き継ぎ、スタンフォード橋で命を落とすノルウェイ王のハラルド・ハルファグル(ハラルド苛烈王)と対峙した。勝者のイングランド人はノルウェイ人らを大殺戮し、彼ら全てを敗走に強いた。この敗走からYsland(?Islay)の黒のハラルドの息子のCrovanのあだ名のゴドレッドが逃れ、彼はマン島を支配しているSitricの息子のゴドレッドのもとに来て、彼は彼から栄誉をもって受け入れられた。同年に私生児のウィリアム(ウィリアム征服王)はイングランドを征服した。彼はハロルド王を殺害し、彼の場所を支配し、そしてイングランド人を永久の奴属に服従させた。彼は20年と11カ月イングランド人の人民を支配した。彼の息子は彼を引き継いだ。
1051年(1070年)にスコットランドの王のマルコルムがクリーブランドほど遠くイングランドを荒廃させ、彼はマーガレットを娶った。同年にマン島の王のSitricの息子のゴドレッドが死去した。彼の息子のFingalが彼を継いだ。
1056年(1079年)にゴドレッド・Crovanは大船団を招集し、マン島に来た。彼はその地の人民と戦ったが、負けて敗走した。再び彼は軍隊と船団を招集し、マン島に行き、マン島人と戦い、負けて敗走した。3度彼は巨大な軍団を集め、夜までにラムセイという港にやって来て、300人をスカイ・ヒルという山の斜面の崖の森に彼は隠した。夜明けに彼はマン島人を戦の体制に編成し、巨大な義務がゴドレッドとの戦いに参加した。戦が激しく荒れ狂い、300人の者達が背後の隠れ場所から立ち上がり、マン島人の住人らの力を削ぎ始め、彼らを敗走に強いた。今や潮流がラムセイ河で河床を満たし彼らは逃げるための彼らのためのあらゆる場所なしに彼らが打ち負かされているのを、敵が片側から絶えずせき立てられているのを目の当たりにした時、残った者達はその時に彼らの命を助けるために哀れな叫びでゴドレッドに許しをこうた。同情で動き、彼らの哀れさに同情を取り、彼はしばらく彼らの間で立たされていたので、彼は軍隊を呼んでよそへ行かせて彼らにさらに彼らを追跡させる事を彼らに禁じた。翌日、もし彼らがそんなに好んだ、もしくは完全にこの地を略奪して家に戻るか、ゴドレッドは軍隊にマン島人を彼らの間で分けるか、そこで生きていくかのどちらかの選択を与えた。全島をより荒廃させて価値あるもので彼らを豊かにして、こうして彼らの家に戻ることが彼らを喜ばせた。一方ゴドレッドは彼と共に滞在したわずかな島民にこの島の南部を、北部はマン島人の残りに認め、この状況で彼らの誰もあらゆる時も相続の権利をもって彼自身のためにこの地のあらゆる部分に要求を敢えてしない。その事から現在までそれが伝わり全島は王だけの財産であり、全てのその税は王に属する。それからゴドレッドはダブリンとLeinsterの大部分を支配下にした。また彼はスコットランド人(?アイルランド人)を押さえ込んでいたので誰も3つ以上の鉄のボルトを用いて敢えて船や舟を造らなかった。彼は60年間統治し、Islayという島で亡くなった。彼は3人の息子を残した。ラグマン、ハラルド、オーラヴ。長男のラグマンは王国を所有せしめ7年間統治した。だが弟のハラルドがしばらくして彼に対して反旗を翻した。しかしついには彼はラグマンに捕らえられ、生殖器と両目を奪われた。この後にラグマンは盲目の兄弟に航海し、自らの意志で王国を退位した。主の十字架のしるしで付け彼はエルサレムへと巡礼の旅に出たが、その途中で亡くなった。
1073年(1093年)にスコットランド王のマルコムはイングランド人に殺害された。ダンカンが彼を継いだ。同年にスコットランドの女王の信心深い意志のマーガレットが死去した。
1075年(1095年)にラグマンの死を知ったこの島の全ての高貴な者達がゴドレッドの息子のオーラヴが大きくなるまで摂政として働く王侯の血筋のある現役の者を遣わすようにとの要求でアイルランド王のMuircheartach O'Brienに大使を遣わした。王は非常に喜んで彼らを承諾し、それは彼のものでないので、全ての適切な親切と穏健をもって王国を統治するのを助言し指図するために彼らのもとにTadhgの息子のドナルドを遣わせた。しかし彼の王国到着後、彼の領主の指図はほとんど考えず、大圧政をもって王国を苦しめた。彼はたくさんの悪事を犯し、3年間無慈悲に統治したのであった。それから一つの約定をもってこの島の全ての首領達は彼に対して共に一団となって団結し、彼らの国境地帯から彼を追い出したのであった。彼はアイルランドに逃れて、もはや彼らのもとには戻らなかった。
1077年(1097年)にIngemundはこの諸島の王国を強奪したノルウェイ王によって送られた。彼がルイス島に到着した時、彼は協議会を開催を指示して彼を王とするようにとこの諸島の全ての首領達に使節を遣わせた。だがその間に彼自身と彼の同志は略奪や遊興、婦人や娘の貞節の暴行に興じ、その他すべての様々な肉体の娯楽と快楽に耽っていた。このことが彼を王にするためにすでに集っていたこの諸島の首領達に報告された時、過度の怒りで熱くなった彼らは彼を急がせて夜までに彼のもとへ行き、彼がいた屋敷に火を付けた。彼らは彼と彼の全ての者達、ある者達は剣でまたある者達は延焼で殺害した。
(1098年)にシトー派の聖メアリー大修道院が設立された。Antiochがその首領達に捕らわれ、彗星が現れた。彗星は特別な場合に、特に王の崩御や信仰の破滅、現れる星である。この年にSantwatでマン島人の間で闘争があり、北部の者達が勝利した。両軍の首領のオッタル伯とMacMarasは約束が切り下げられた。
同年にハラルド・ハルファグル(ハラルド苛烈王)の息子のオーラヴ(平和王)の息子の、聖オーラヴ王と殉教者の亡骸のどちらかを探し出したいと欲していたノルウェイ王のマグヌスが弱り、彼のために墓を開けるようにと指図をした。
司教と聖職者はこれに対立したのだが、王自身が大胆にそれに近づき、王権により彼のために社は開けられた。完全な亡骸を彼が両目で見て両手で感じた時、突然に大きな恐怖が彼を急襲し、彼はたいへん急いで立ち去った。次の晩に聖オーラヴ王と殉教者は彼の夢の中に現れて言った。「お前自身で2つのことを選べ。30日以内でお前の王国と共に命を失うか、ノルウェイから去り二度と国を目にしないかのどちらかを。」と彼は言った。眠りから覚めると王は彼のもとに首領達と年長者達を呼び出し、この夢について話した。驚いて彼らは出来るだけ早く彼にノルウェイを去るようにと助言した。それ故に遅れないで彼は集結した160隻の船の船団を抱えて、彼が直ぐに彼の支配に服従させたオークニー諸島へ向けて出帆した。全ての島々を抜けてそこを服従させながら、彼はマン島まで遠くにやって来た。彼は聖パトリック島に上陸した時、彼はマン島人がしばらく彼ら同士で戦った戦場を理解した。それはたくさんの戦死者がまだ焼かれずにあったからであった。とても美しいこの島を見ることは目を楽しませ、彼はここに住むことを選択した。彼は自らの名前を持つ要塞を建造した。ギャロウェーの人々は彼が強要したので彼は要塞の建造のために木材を伐採して岸にそれをもってくるようにと彼らに余儀なくさせた。彼はウェールズのアングルセイに向けて出帆し、そこで2人のフューゴ(Hugo,Earl
of Chester,Hugo/Earl of Shrewsbury)を見つけて、1人を殺害し、もう1人は逃走させ、彼の支配にこの島を服従させた。ウェールズ人達は彼にたくさんの贈り物、彼がマン島に戻る別れの挨拶を贈った。アイルランド王のMuircheartachに彼がマグヌス王に征服されたとのことをそのことから理解するようにと、彼の使節を十分に考慮して、彼はクリスマスの日に彼の屋敷の中央を通って彼の両肩に持っていくようにと彼に指図して彼の靴を送った。彼らがこれを聞いた時、アイルランド人は非常に気分を害し、とても立腹した。しかし王は、よりかなり近寄って、言った。「私がこのくつを運ぶことを選ぶだけでなく、それらを食べるだろう、マグヌース王がアイルランドの一つの州を破壊することよりは。」。彼はそれゆえに指図を成就して使節団に名誉を与えた。彼はまた彼らによってマグヌス王にたくさんの贈り物を贈り、協定を結んだ。しかし使節団が彼らの主のもとへ戻った時、彼らはアイルランドの地理とその美しさ、作物の豊かさや健康的な気候を彼に伝えた。マグヌスがこれを知ると彼は彼の支配下に全アイルランドをどのように持っていくか以上のことは何も考えられなかった。それゆえに彼は船隊の準備を命じた。彼自身もこの国への遠征を欲して60隻と共に先頭に立って出発した。彼が不注意に船を離れた時、彼は突然にアイルランド人に取り囲まれて、彼と共にいた者達全ても死んだ。彼はダウン(北アイルランドのアルスター地方南東部の州)の聖パトリック教会近接で埋葬された。彼は諸島の王国で6年間支配した。彼の死でその島々の首領達は既に言及しているイングランド王ヘンリーとウィリアムの息子の宮廷でこの時刷らしていたゴドレッド・Crovanの息子のオーラヴを呼び寄せ、彼らは彼の帰宅を導いた。
(03/10/12)
とりあえずマグヌース裸足王が関連する部分までの内容。ここまででマン島の年代記の5分の1ぐらいです。後の5分の4をするかどうか・・・まだ未定・・・。