ハラルド青歯王の時代

 ゴルム老王亡き後、デンマーク(Danmrk)でハラルド(青歯王)(Haraldr Gormsson)が王となる。彼は武将としても優秀であり、サクソン帝国(Saxlandi)のホルスタイン(Holtsetaland)を征服し、ヴェンドの国(Vinðlandi)にヤールの領土を拡張させ、かの有名なヴァイキング要塞であるヨームスボルグ(Jómsborg)を建設し、軍隊を設立し、武力を増強していったのである。軍は王に統率され、夏にはヴァイキング行きを行い、冬には国で大人しくしていたのであった。彼らは「ヨムスヴァイキング」(Jómsvíkingar)と呼ばれ、名を馳せたのである。
 ハラルド・ゴルムソンは(青歯王のあだ名は後世につけられた)裏切りを企て、ノルウェイのエイリーク血斧王の妻である王母グンヒルドの息子のハラルド灰色外套王(Haralds konungs Gunnhildarsonar)をリムフィヨルドのハール(Hálsi í Limfirði)で殺害した。(この話はヘイムスクリングラやその他のノルウェイ王のサガに記されている。)。この後にハラルド・ゴルムソン王はノルウェイに進軍し、全土を統治下にしたのである。王はヤールのハーコン・シグルダルソン(Hákon jarl Sigurðarson)をノルウェイの支配者として任命し、王の名代として全土から税を徴収することになったのである。
 ハラルド・ゴルムソン王が玉座に座している時、「赤の」オットーがサクソン帝国の皇帝(Ottó inn rauði)であった。大帝はデンマーク王を攻撃し、デーン人にキリスト教を布教させようとしたが、デンマーク王はキリスト教の教えをよしとせず、抵抗をしていたのである。
 ヤールのハーコンにノルウェイを任せ、ハラルド・ゴルムソン王はダネビアケ防塁(Danavirki)でのオットー大帝との戦に明け暮れていた。そこでは激しい戦が繰り広げられ、オットー大帝軍が敗北したのだが、すぐに補強して領土を取り戻し、ハラルド王とヤールのハーコンの後を追わせ、リムフィヨルド(Limafjarðar)にまで追いかけたのであった。こうしてハラルド王はキリスト教を享受し、オットー大帝はハラルド王の息子のスヴェン(後の二叉髭王)の名づけ親となったのである。そしてスヴェンはオットー・スヴェン(Ottó-Sveinn)と命名されたのである。皇帝は望みはまさにデンマーク全土の改宗であった。
(03/01/16)

 ハラルド・ゴルムソン(青歯王)王の統治時、スウェーデン王のオラーヴ・ビャルナルソン(Óláfs Bjarnarsonar Svíakonungs)の息子の強いスティルビョルン(Styrbjrn)はバルト海を抜けて東方に進軍し、デンマークに攻めてきた。そしてハラルド・ゴルムソン王(青歯王)は捕らわれの身となるのである。それからハラルド王は彼に娘のチューラ(Þyri)を政略結婚のために引き渡し、スティルビョルンと共にスウェーデン(Svíþjóðar)に向かった。上陸前、スティルビョルンは全船を焼き払い、すぐにハラルド王はスティルビョルンが1隻たりとも保持していないと判ると、彼は自らの数隻の船で水路でデンマークへ戻ろうとした。 スティルビョルンはおじのスウェーデン王のエリク常勝王(Eirík inn sigrsæla Svíakonung)とフィーリス平野(Fýrisvllum)で戦い、いくぶんかは逃れられたのだが多くの家来共々と戦死した。スウェーデン人はこれをフィーリスの追跡(Svíar Fýriseltu)と言うようになったのである。 ハラルド・ゴルムソン王洗礼後、彼はヤールのハーコンにキリスト教の信仰を受け入れるように強い、彼は自身のノルウェイ人の従者達と共々洗礼することになった。ハラルド王は彼に数名の司祭と聖職者をノルウェイでの布教のために与えた。この後に彼は王のもとを去ったのだが、ヤールのハーコンはノルウェイに向けて出帆したのだが、彼はリムフョルドのハール(Hálsi í Limafirði)の海岸に聖職者達を放りだし、キリスト教を放棄して、故郷に帰ると再び供犠(blót)を行って異教を続けたのであった。 ハラルド王がハーコンがキリスト教を放棄した上にデンマークを襲撃していると知り、王はノルウェイに進軍し、ソグン(Sogni)のレルダル(læradal)の5つの農場を除いて、リンダネス(Líðandisness)からスタズ(Staðs)まで海岸沿いの村々を襲ったのであった。ここに住んでいた者達は家財道具を持って森や山に逃げ込んだのであった。 アイスランド(Íslands)を攻略しようとしばらくハラルド王はソールンド諸島(Sólundum)にいたが、それはアイスランド人が王を嘲る風刺詩を作ったことへの報復であった。ハラルド王はアイスランドへ魔術師を魔術の旅(動物の姿で旅をする事hamfrum)で遣わせ、彼から報告を受けた。その者は鯨の姿で島を周った。その後に彼は王にそこにはありとあらゆる怪物が住んでおり、2つの国の間には大洋が横たわり、船にとって骨折りの旅になろうと言った。ハラルド王はこれを聞いて、侵攻は実現不可能と判断したのである。 このノルウェイ攻撃の後、ハラルド・ゴルムソン王は軍隊を連れてデンマークに戻った。そしてヤールのハーコンは再び身を落ちつかせ、そしてデンマーク王へは納税をしなかったのであった。
(03/03/03)

スヴェイン二叉髭王の時代

 ハラルド・ゴルムソン王の息子のスヴェインは王国のいくつかの領地を要求したのだが、彼が側室の子であったので、王は彼にそれをよしとしなかった。しかしスヴェインが成人すると彼は船と兵を手に入れて、国や諸外国のあっちこっちを襲撃した。ハラルド王はこれに激怒し、息子を倒すべく徴兵した。 この時からスヴェインは養父のパールナ・トーキ(Pálna-Tóki)と合流した。このあたりはヨームスヴィーキングのサガに既述されているのである。そして彼らはシェラン島(Sjólands)に向かい、イーサフョルド(Ísafjrð)に入った。ハラルド王は息子と戦うべく艦隊で待っていた。スヴェインが戦に突撃して来て、それは激戦となったのだが、どんどん兵が王に群がったために、スヴェイン軍は圧倒されて逃げるに至るのであった。 この戦いで、ハラルド王は矢による致命傷を負った。そして最初のデンマーク王は神聖にされた大地に埋葬されたのであった。彼の統治は80年間統治した。30年目までの統治時代にはゴルム老王がまだ存命であった。そして父王死後50年間統治したのであった。 ハラルド父王亡き後、スヴェインは王国を引き継ぎ、スヴェイン二叉髭王(Sveinn tjúguskegg)と呼ばれるようになった。彼は強力な王となり、彼の時代にヤールのシグヴァルディ(Sigvaldi jarl)やその他のヨムスヴァイキングがノルウェイに行き、ヤールのハーコンとメーレ湖のヒョールンガヴァーイ(Mæri á Hjrungavági)で戦った。ヤールのシグヴァルディは命辛々逃げたのだが、「デカイ(ディグリ・聖オーラヴ王のあだ名と同じ)」ブーイ(Búi digri)が殺害された。この後、デンマークの王達はノルウェイで権限を持たなくなったのである。少しして、オーラヴ・トリュグヴァッソン(Óláfr Tryggvason)がノルウェイに戻ってきて、王国を手中にするのである。 スヴェイン王はポーランド王(テキストはヴェンド王。Vinðakonungs)のブリスラウ(Búrizláfs Vinðakonungs)の娘のグンヒルド(Gunnhildi)と結婚し、その息子は後に北海大王となるクヌート(Knútr)とハラルド(Haraldr)である。後のスヴェイン王は「戦の」トースティ(Skglar-Tósta)の娘の高慢のシグリーズ(Sigríði ina stórráðu)と結婚するのである。(これはヘイムスクリングラでも述べられており、オーラヴ・トリュグヴァッソン王と破談になった後にこうなるのである)。そして彼女は聖オーラヴのサガで登場するスウェーデン王オーラヴ(Óláfs Svíakonung)の母である。そしてスヴェイン二叉髭王とシグリーズの間には「柱脚の」ソルギルス(Þrgils sprakalegg)の息子のヤールのウールヴ(Úlfr jarl)に嫁ぐアーストリズ(Ástríðr)である。そして息子はスヴェイン(Sveinn)とビョルン(Bjrn)である。スヴェイン二叉髭王の娘のギザ(Gyða)はヤールのハーコン・ハーコンソンに嫁いで、その子供は聖オラーヴ(Óláfr inn helgi)にサウズングスンド(Sauðungssundi)で捕らわれるヤールのハーコンである。 彼の継子のスウェーデン王オーラヴ王と義理の息子のヤールのエイリーク(Eiríkr jarl)を従えてスヴェイン二叉髭王はスヴォルド(Svldr)の海戦でオーラヴ・トリュグヴァッソン王を海中に取り逃がし(これがオーラヴ・トリュグヴァッソン王の死とみなされている)たが、勝利するのである。オーラヴ・トリュグヴァッソン王の死後、デンマーク王スヴェイン、スウェーデン王オーラヴ、ヤールのエイリークはそれぞれノルウェイを3分の1づつ手に入れるのである。 スヴェイン二叉髭王は戦に長け、最強の支配者であった。彼はバルト海(Austrveg・東方の道)やドイツ(Saxland)を広く襲撃したのである。結局、彼は軍隊を英国(England)に差し向け、至る所を襲撃し、数多くの戦をこなした。(イギリス地図) エドガー王の息子のエセルレッド王(Aðalráðr konungr Játgeirsson)が英国王で、スヴェイン二叉髭王と多くの戦を交え、勝ったり負けたりを繰り返したのがだ、ついにスヴェイン二叉髭王は英国の大部分を手に入れることになったのである。この後にスヴェイン二叉髭王は長くそこへ留まり、国中を火を付けたり襲撃したりして、英国最大の敵と呼ばれるようになるのである。この間にエセルレッド王は海外に亡命した。しかしある日、スヴェイン二叉髭王の寝床で突然死するのである。すると英国人達は聖エドムンド王(Játmundr konungr inn helgi)にとって憎っくきデンマークのスヴェン王は聖メルクリウス(helgi Merkúríús)が背教者ユリアヌス(Júlíánúm níðing)を殺害したようにその命を取ったと口々に噂したのであった。 スヴェイン二叉髭王亡き後、デーン人の首領達は王が征服した領土をそれぞれ保持したのである。それから戦が再び勃発した。スヴェイン二叉髭王がいないとなるとすぐにエセルレッド王が舞い戻り、聖オーラヴの助力で王国を再び手に入れるのであった。おおよそ時を同じくして、デーン人達は英国でシングメン徴兵(þingamannalið)制度を設立した。彼らは最強の戦士で英国人ともっぱら戦うことになるのである。
(03/03/04)

北海大王クヌートの時代

 スヴェイン二叉髭王が亡くなった時、その息子のクヌートは10歳であった。彼の兄弟のハラルドは既に故人となっていたので、クヌートはデンマークとデンマーク領の全ての王となった。スヴェイン王により征服された地を保持する英国にいるデンマーク人首領はデンマークに言付けを送り、クヌート王にデンマーク軍を引き連れてイギリスにきて、彼らの足下を固めてほしいと伝えた。しかしクヌート王はまだ子供であったので、軍隊の率先に長けているわけでもなく、彼の友は王にイギリスに軍を差し向けるようには言ったが、その指揮官は誰かに任せ、王自身は成長するまで国に留まるように言った。こうして3年の月日が流れ、彼はデンマークに留まっていたのであった。 その後、彼はデンマークで海外遠征をする軍を招集し、義兄弟のノルウェイのヤールのエイリークに言付けを送り、イギリス遠征に加わるように言った。彼はスカンジナビアで最も有名な戦いのうち2つの戦いを勝ち抜いている者であった。その一つはスヴェイン二叉髭王、スウェーデン王オーラヴ、ヤールのエイリークの連合軍対オーラヴ・トリュグヴァッソン軍のスヴォルドの海戦で、もう一つはヤールのハーコンとヤールのエイリーク連合軍対ヨムスヴァイキングのヒョルンガヴァーイ(Hjrungavági)軍の戦いである。 クヌート王は西方のイギリスに大艦隊を引き連れて向かった。多くの首領達がクヌート王とイングランドに向かった。その内の1人はクヌートの姉妹のアーストリズ(Ástríði Sveinsdóttur)の夫のヤールの「柱脚」のウールヴの息子(Úlfr jarl Sprakaleggsson)である。そしてヤールの「三角頭巾の」ハラルド(Strút-Haralds jarl)の息子のヘミング(Hemingr)とソルケル(Þorkell)の2人の兄弟やたくさんのそれ以外の強力な首領達がいた。クヌート王は英国に舳先を向け、フンベル(Fljót)と呼ばれる場所に初上陸した。すぐにクヌート王は進軍し、略奪と襲撃をした。その地の者達は反撃を試みたのであった。クヌート王は大災難になるリンドセイ(Lindisey)でイギリスで最初の大激戦をこなし、彼はイングランドのヘミンガボルグ(Hemingaborg)を制し、たくさんの者を殺害した。テス河(Tesu)でノーサンバランド(Norðinbaraland)の大激戦を戦った。多くの者達が殺害され、それ以外の者達は沼地や溝に逃げ込んだ。それからクヌート王は南に進軍し、全てを征服したのであった。 エセルレッド王が寝床で38年の統治の幕を閉じたイギリスにクヌート軍がやってきたのは真夏か秋であった。王の死後すぐに未亡人となったエマ王妃(Emma Dróttning)はフランスに亡命するために旅したくを整えて、兄弟のウィリアム(Vilhjálm)とロバート(Roðbert)を訪ねた。彼らの父はメーレ湖のヤールのラグンヴァルド(Rgnvalds Mœrajarl)の息子のノルマンディー征服者の「徒歩の」ロールヴ(Gngu-Hrólf)(ノルマンディー公ロロ)の息子のルーアン公のウィリアム長剣王の息子(Vilhjálmssonar langaspjót)のリチャードの息子のリチャード(Ríkarðr Rúðujarl Ríkarðsson)であった。 クヌート王の家来達はエマ王妃が旅を計画していると知ると、彼女のまさに出航しようとしている船を止めた。彼らはエマ王妃をクヌート王のもとへつれて行き、クヌート王の妻になることが決められ、執り行われたのであった。
(03/03/10)

 アセルレッド王(Aðalráðs konungs)の死後、エマ(Emmu dróttningar)との間の息子達の、長男のエドムンド剛勇王(Játmundr inn sterki)、エドガー(Játgeirr)、エドウィ(Játvígr)(3人は実際は最初の妃のエルフラードとの息子)、エドワード懺悔王(Játvarðr inn góði)は彼の後を継いだ。
 エドムンドは大軍団を召集し、クヌート王へと行軍した。彼らは両軍大損失した、その時代の最も有名な戦の一つのシャールストン(Skorsteini)という場所で会戦した。エムンド王は継父のクヌート王が攻撃できる距離へとデンマーク軍の中心部に真っ直ぐに突撃した。クヌートは馬の首の上に盾を突き出し、一撃は握りの下に突き刺さったので肩まで深々と盾と馬とが引き裂かれた。この後、エドムンドは大した負傷もせずにデーン軍の多数の兵を殺害したのだが、デーン軍がエドムンドの激しく攻撃したので、彼は後退を余儀なくさせられた。
 エドムンド王の攻撃で彼は家来の目を離れ、家来達は彼が殺害されたと思った。それから何名かが王がデーン軍から馬で逃げてきているのを目にしたものがいたのだが、彼らは隊列を崩して逃げた。しかし彼らは逃げていたので、王は彼らに向かって戻るように叫んだのだが、誰も命令を聞かなかった。全イングランド軍は総崩れし、恐ろしい追撃は夕暮れまで行われたのであった。
 いつもヤールのウールヴ(Úlfr jarl)はクヌート王軍の筆頭におり、誰よりも遠くにまで敵を追った。それから彼はこの森の中に入り込み、一晩中探したのだが、昼間まで道を見つけだせなかった。それから開けた場所に出て、彼は1人の羊の群の番をしている青年と会った。ヤールは彼に近づいて名前を訪ねた。彼はゴドウィン(Guðini)と名乗り、ヤールにクヌート王軍のものかと訪ねた。ヤールのウールヴはその通りだと言い、ここがどれぐらい自軍の船から離れているのかを訊ねた。すると彼はイングランド側の自分から手助けを求められると思うなと答えた。ウールヴが彼に船に戻る手助けを求めた。すると若者は彼が船団とは反対側にきており、クヌート軍が不慣れな深い森に入り込んだと言った。そして昨日のシャールストンでの殺害の事を皆は知っているので、クヌート軍の者は手助けはしてもらえないと言った。するとヤールは彼に腕から黄金の環を外し、彼にこれで案内を頼むと言った。するとゴドゥインはしばらくそれを見た後に、受け取らないが案内はすると言った。そしてまず家に一緒に戻って父と会ってくれと言った。
 そして彼が言った通りになった。彼らが農場に来て、ゴドウィンが食卓と飲み物を準備している小さな部屋のに入った。ヤールのウールヴはそれらがいいもので、十分に備えのある農場の屋敷であると判った。それから農夫とその妻が入ってきて、見た目はよく、きちんとした服を身にまとっていた。彼らは暖かく客人を迎え、最高のもてなしでその日を彼は過ごしたのであった。夜も更けて出した頃、2頭の馬に最高の馬具を着けた。それから彼らはウールヴと話をした。彼はお別れの挨拶をして、一人息子を彼に託し、王のもとへ戻られたら彼に奉公の場所を与えて欲しいと言った。それは彼がウールヴを手助けしたために村人に知られるとここにいられないからであると言った。
 ゴドゥインは男前で、話し上手で、ヤールのウールヴは彼の仲間に加えることを約束した。その農夫の名前はウォルフノート(Úlfnaðr)と言った。
 ヤールのウールヴとゴドウィンは夜明けまでにクヌート王の船団に到着しようと夜通し馬を進めた。家来達が岸におり、彼らがヤールを認めると、彼は皆から好かれていたので彼らはまるで彼が蘇ったかのように彼のまわりに集まって歓迎したのであった。そして彼らはすぐにヤールの同伴者のゴドゥインが誰かは判らなかった。
 ヤールはゴドゥインを彼のそばの高座に置き、まるで彼を自らや実の息子と同じように彼を扱った。手短に話せば、ヤールはゴドゥインに姉妹のギューザ(Gyðu)と結婚させ、彼が義理の兄弟になったことでウールヴの友情と後ろ盾ができて、ゴドゥインはクヌート王からヤールの領土(jarldóm)を与えられた。
 ゴドゥインとギューザの子供達は、イングランドのハラルド(Haraldr Englakonungr)、「木の槍」のヤールのトースティ(Tósti jarl, er kallaðr var tréspjót)、ヤールのモルカル(Mrkukári jarl、ヤールのワルセオフ(Valþjófr jarl)、ヤールのスヴェイン(Sveinn jarl)である。イングランド、デンマーク、スウェーデン、ロシア(Garðaríki)出のたくさんの偉大な者達は、デンマークの王家を含めて彼らの子孫である。
 ヤールのゴドゥインの息子のハラルド王にはノブゴロド(Hólmgarði)のウラジミール王(Valdamarr konungr)と結婚したギューザ(Gyða)という娘がおり、彼らの息子のハラルド王には後で語ることになる2人の娘がいる。

 アセルレッド王の息子達が総崩れの後で勝利を得たブレントフォード(Brandfurða)という町でクヌート王が戦ったその他の戦いがある。デーン軍はその要塞を破壊した。クヌート王は3つ目の戦いをして、最大の戦いはデーン人の森の北のアシングトン(Assatún)という場所でアセルレッド王の息子達(Aðalráðssynir)との戦いである。第4の戦いはクヌート王によるエドムンド王とその兄弟とのノーウィッチ(Norðvík)での戦いで、たくさんが殺害されたのだが、クヌート王はその日に勝利してアセルレッド王の息子達は総崩れしたのであった。

 この後にエドムンドとその兄弟がロンドンに逃げたと聞いたのでクヌート王はテムズ川(Tempsar)まで行軍した。クヌート王がテムズ川のエスタリー(Tempsarmynnis)に到着した時、義兄弟のヤールのエイリーク・ハーコナルソン(Eiríkr jarl Hákonarson)が海から船でやってきた。彼らは軍を合流して上流に向けて出帆した。テムズに大きなしっかりと武装した砦がその領土を守り、川を上る海からの武力をくい止めるために建造されていた。クヌート王は真っ直ぐにそこへ向かって攻撃したが、イングランド人の船団がロンドンから川を下ってきて、デーン人と交戦した。

 クヌート王は全軍をロンドン(Lundúndaborgar)に率い、野営を設置した後に、町を襲撃した。しかしクヌート王たくさんこの地で戦をしたが、この町は落ちなかった。

 ヤールのエイリークは、大指揮官の「練達の」ウールヴケル(Úlfkell snillingr)によって指揮されたイングランド軍と戦うために多数の家臣シングメン部隊(þingamenn)を従え、軍隊のいくつかを連れて内地を行軍した。彼らは会戦し、ウールヴケルが敗走してエイリークが勝利した。
 ヤールのエイリークはリングメア(Hringmaraheiði)でイングランド軍とそれ以外の戦いを行った。ヤールのエイリークはそこで勝利した。

 クヌート王はエドムンド王とその兄弟達に守られたロンドンを包囲した。彼らの母のエマはクヌート王と結婚し、ついには両者で人質を交換し、決着をつけたのであった。この会合で和平が同意された。国は彼らで分割し、存命時には互いに王国の半分を支配し、もしどちらかが世継ぎなしに死ねば、生き残った者が王国全てを手に入れるという条項が結ばれた。この同意は誓いにより確立されたのであった。
 エドムンド王に背いて殺害するようにとクヌート王から賄賂を受け取ったエドリック・ストリョナ(Heiðrekr strjóna)という力強い者がいた。彼はエドムンドの養父で彼から信頼されていた。そしてこれが王の死亡の原因であった。この後にクヌート王はイングランドからアセルレッド王の息子達全てを追い出した。この結果としてたくさんの戦いがあったが、エドムンド王が殺害された後に、二度と彼らはクヌート王に対して軍を召集しなかった。
 この後、アセルレッド王の息子達はフランスのノルマンディー(Vallandi í Norðmandí)に渡り、聖オーラヴのサガ(sgu Óláfs ins helga)で語られているようにロバート(Roðbert)とウィリアム(Vilhjálmi)の母方のおじと共に長らく大祭した。
 ヤールのエイリーク・ハーコナルソンはローマ(Rómferðar)に向けて出発しようとしていた時にイングランドで死去した。彼ののどびこ(úfr)が取り外されて、止血できず、これが彼の死の原因(bana)であった。
 クヌート王とエマ王妃には3人の子供がいた。ハラルド(Haraldr)、ハルデ・クヌート(Hrða-Knútr)、皇帝聖ヘンリー(Heinreki keisara inum milda)と後に結婚するグンヒルド(Gunnhildr)である。彼は名前で呼ばれる王族の第3番目の男系の血統である。クヌート王には3人目の息子のスヴェイン(Sveinn)がおり、彼の母はヤールのアールヴルーン(Álfrúns jarls)の娘の力あるアールヴィーヴァ(Álfífa in ríka)である。

 クヌート王がイングランドとデンマークを統治している時代、オーラヴ・ハラルドソン(聖オーラヴ)(Óláfr Haraldsson)がノルウェイの王であった。オーラヴの影響が及び、ヤールのスヴェイン・ハーコナルソンとクヌートの甥のヤールのハーコン・エイリークソン(Hákon jarl Eiríksson)は海外に逃れた。ヤールのハーコンはイングランドにおじのクヌート王に会うために出帆し、王は彼を暖かく迎えた。後にオーラヴ王とクヌート王の戦が勃発した時、クヌートとヤールのハーコンは無敵艦隊でノルウェイに向かった。これがオーラヴ王の統治の終焉をもたらしたのであった。彼らは王国全土を征服し、クヌート王はおいのハーコンを彼がデンマークに戻っている間はノルウェイの統治者にした。オーラヴ王は海外に逃れ、東のロシアに向かったが、2年後に彼はノルウェイに戻り、オーラヴに不忠で、反旗を翻した自身の土地保有者達とスティクレスタド(Stiklarstðum)で大きな戦をした。皆が承知のように彼はそこで殺害され、聖人としてニダロスの社(skríni í Niðarósi)に永遠の眠りについているのである。
 ヤールのハーコン・エイリークスソンは北海(Englandshaf)で聖オーラヴが殺害される前のその年に死んだ。それからクヌート王とアールヴィーヴァ(Álfífu)の息子のスヴェインはノルウェイに行き、父の命令で全王国の王となり、クヌート王はまた王の称号と共にデンマークの統治者として息子のハルデ・クヌート(Hrða-Knút)の任命を命じた。クヌート王はスコットランド(Skotlandi)の大部分を支配し、息子のハラルドをその王にしたのだが、クヌート自身はそれら全ての主権を依然留めていたのであった。彼は北欧の王の中で最も権力を持ち、最も広大な領土を保持し、そして人々は彼を大クヌート(Knútr inn ríki)、もしくは老クヌート(Knútr gamli)と呼んだのであった。
 クヌート王は南方のローマ(Róms)に向かい、そこで莫大な金銭を費やした。彼は莫大な品々を運んだだけでなく、必要な時に望むだけ皇帝の金銭を使えたのであった。彼の家来達は誰も王がローマに行っている間に食糧に困らなかった。フランダース(Flæmingjalandi)からローマまで王は徒歩で旅をした。クヌート王は全ての北欧の人達が宿を取れるようにと宿泊所(spítali or spítall)を設立し、全てのそれらの修道院(klaustr)などに莫大な寄付(stórfé)をしたのであった。

 イングランドの彼の領土への帰還で、クヌート王は黄疸(gulusótt)がまずでる病気になった。彼は夏の終わりまで寝床で横たわり、11月13日(Ídús Nóvembris)の秋に死去し、ウインチェスター(Morstr)と呼ばれる大きな町に埋葬された。彼は享年37歳で、イングランドを24年間支配し、ノルウェイを7年間支配した。北欧(Norðrlndum)に彼ほど権力を持ち、広大な王国を治めたものはいないというのは一致した皆の意見であった。

 北欧でクヌートほど寛容な王はいなかったという話で、彼は友人らへの贈り物(vingjafir < vingóf(friendly gift)はその他の王達を遥かに凌いでいた。しかし同時に彼は3つの王国から毎年の義務(skatta)や税(skyldir)を一つの国を統べるあらゆる者よりたくさん手に入れていた。イングランドは他のあらゆる北方の国々より豊かであった。
 彼の寛容のその証明は賞賛の舌のソーラリン(Þórarinn loftunga)というアイスランド人(íslenzkr)についてのお話である。彼は長い人生の間たくさんの王やその他の偉大な者達のもとで奉公した素晴らしい詩人である。彼がクヌート王を王の詩を作るために訪れた時、彼は老人であった。彼は王に謁見して挨拶をし、作詩した詩を聞いてくれるかどうか訊ねた。王は食事を済ませて食卓に座っていた。たくさんの者達が嘆願するために食卓の前に立っており、王はしばらく彼らの話に耳を傾けていた。彼らが終わった時、ソーラリンは王侯らしき堂々とした1人の男に遠慮なく話しかけた。
「閣下、私の詩を聞いてくれるかもう一度おたずね申す。そんなに長い詩ではないので、時間は取らせませんよ。」と彼は言った。
王は彼をにらんだ。
「かつて私にそんな言い方をしたものはおらぬ。明日の朝食に私を讃える30詩句かそれ以上のドラパ詩(drápa)を披露するか、命を取られるかのどちらかだ。」と王は言った。
 ソーラリンは出て行き、彼が持ってきた元々の詩を全て使ってクヌート王のドラパ詩を作詩しだした。このドラパ詩は頭の身代金(Hfuðlausn)と呼ばれている。翌日、彼は王の食卓に詩を届け、それが見事な出来映えであった。王はこの詩に対して純銀50マルク(fimm tigu marka skírra)を与えた。
 後でソーラリンはクヌート王を讃えるセグドラパというその他のドラパ詩を作詩した。クヌート王は詩人のソールヴァの息子のベルシ(Bersa Skáld-Torfusyni)に黄金で飾られた剣と一緒に各1マルクの重さの2つの黄金環(tvá gullhringa)を与えた。
 英国のクヌート王の死で、父王以上の王国を治めた息子らのいた間の数世代続いたデンマークの王らの惜しげない寛容は終わった。

 クヌートは極めて背が高くて強く、だんご鼻で高い場所にあってやや鉤鼻である鼻以外は申し分ない容姿で、彼は申し分ない外見で、きれいなふさふさした髪の持ち主であった。人よりも視力がよく、きれいで鋭い眼識の持ち主であった。彼は寛容(rr maðr)で、大戦士(hermaðr mikill)で、勇敢で(inn vápndjarfasti)、勝利者で(sigrsæll)、幸運の持ち主で(hamingjumaðr mikill um alla hluti)あった。だが彼は知力(stórvitr)は抽んでて優れているというわけではなく、先代のスヴェイン王(Sveinn)やハラルド王(Haraldr)やゴルム王(Gormr)ぐらいであると言われている。彼らの内誰も目立って見識があったというわけではないのである。

 老クヌートの息子のホルザ・クヌートは父王の死後デンマーク王国を引き継ぎ、一方、もう1人の息子のハラルドはイングランド王になった。その時、アセルスタンの息子のハラルドとホルザ・クヌートの義理の兄弟のエドワード懺悔王はイングランドにやって来て、尊敬されていた。
 クヌート王崩御の2年後、ヘンリー皇帝に嫁いだ娘のサクソンのグンヒルド王妃も亡くなり、それから3年後にイングランドのハラルド・クヌートソン王がウインチェスター(Morstr)の父の傍らに埋葬された。この後、兄弟のホルザ・クヌートはイングランドとデンマークの両王国を支配したのだが、ホルザ・クヌートと義兄弟(svarabróðir)の聖オーラヴの息子のマグヌース(Magnús)がノルウェイを支配した。ハラルド・クヌートソンの死の2年後にホルザ・クヌートが亡くなり、彼もまたウィンチェスターの父王老クヌートの傍らに埋葬された。
 ホルザ・クヌートの死でデンマークの王族の古代の家系はとぎれることになったのであった。それからエドワード・アセルレッドソン(Játvarðr Aðalráðsson)がイングランドの王になり、長らく支配し、デンマークの王家は決してイングランドを統治することはなかった。聖オーラヴの息子のマグヌースはデンマークで支配力を示し、王になった。彼はマグヌースという他の名前を持っていたと言われているスヴェイン(Sveinn)が彼と王国を共有するようになった時の1年間デンマークを支配した。スヴェインは柱脚のソルギルスの息子のヤールのウールヴの息子(son Úlfs jarls Þorgilssonar sprakaleggs)で、彼の母はスヴェイン二叉髭王(Sveins konungs tjúguskeggs)の娘で老クヌートの姉妹のアストリド(Ástríðr)である。アストリドの母は戦のトースティ(Skglar-Tósta)の娘の高慢のシグリド(Sigríðr。エイリーク常勝王の妻で、未亡人になった時にオーラヴ・トリュグヴァッソン王に求婚したが断られたのでスヴェイン二叉髭王と結婚する)で、彼女はまたスウェーデン王オーラヴ(エイリーク常勝王が父)の母である。
(03/10/21)