古代ヨーロッパにはルーン文字という角ばった24つの記号で構成された文字が存在した。
これらについては後の共通ゲルマンルーン文字で詳しく触れることになるのだが、これら24文字のセットはおおよそ初世紀頃に発祥し、いわゆるローマン=ゲルマン鉄器時代に活躍する。いろはという呼称のようにこの文字も前から6文字を取ってフサルク(fuþark)と呼ばれている。もちろんこれは後世に付けられた呼称である。
そしてこれを元にスカンジナビアで音声変化の結果と他ルーンによる代用で数を減らし16文字のスカンジナビアルーン文字となり中世にまで存在し、英国ではその数を増やし写本上での発見になるが、最高33文字にまで数を増やすのである。
ルーン文字はここ最近、占いやお守り、ゲームのアイテムとしてよく目にすることができます。現代のルーンマスター達は特にそういったものに特化して使用しているために、この文字は神秘文字や魔法文字と理解されがちである。
実際は古代ゲルマン人、古代スカンジナビア人、古代アングロサクソン人が使用した呪術にも使用された実用的な文字であった。現代とは状況が異なり、昔は魔法や呪術や占いというものが実生活と密着して現実的なものであった。それゆえ「魔法」や「まじない」で使用された古代のルーン文字も「実用的な」文字であった。「実用的」という単語でさえ曖昧なものになってくるのではあるが、古代にはそれが普通であったと思われる。
rune という単語については今まで実にたくさんの議論がなされてきた。一般的に8世紀のものとされている古英語で記されたベーオウルフ(Beowulf)には アッシュヘレ(Æschere)は王のとして登場する。
A CONCISE ANGLO-SAXON DICTIONARY FOUTH EDITION でこの語を引くと、 : adviser, counsellor, wise man (助言者、賢者)とある。
そして という語を引くと、mystery, secrecy, secret, El,JnL : counsel, consultation, B,KC,Wa : (secret) council : runic character, letter, BH : writing, An,Da. ['roun'] (神秘、秘密、助言、ルーン文字)と記されいる。
つまり神秘や秘密が先行し、ルーン文字そのものの意味は後にくるのである。文字という実用的な役割以上に神秘や秘密に意識が置かれているのである。
ややわき道にそれるのだが、英国のキリスト教の歴史を見てみると563年にアイルランドからやって来た聖コルンバとその修道士達の努力によりブリテンの北に住んでいたピクト族、スコット族がキリスト教化され、アイルランド系のキリスト教は北部からその活動範囲を広めていった。この時代までにローマ帝国のブリテン島への支配があり、既に大陸系のキリスト教の布教は南部で始まっていたのだがあまり上手くは行っていなかった。そしてアイルランド系、ローマ系の衝突によりついに664年にウィットビー修道院の宗教会議(シノッド)でローマ・カトリックが正統となった。
修道院はラテン文字、ラテン語を必要としルーン文字を必要とはしなかったように思われるかもしれないがそうでもないのである。ウルフィラス(Wulfila)*1の用いたゴート文字もルーン文字を取り入れたといわれており、また英国では6世紀以後、ケルト式ローマ文字(補正されたラテン文字)を採用したのだが、古英語の þ (thorn)、 þ (wenまたはwyn(n)) はルーン文字から取り入れられたのである。そして修道院の研究により写本に残されるようになり、教会の関係する物にルーン文字が用いられたりと駆逐されることはなかった。
まずサイトで検索すると「ルーン文字はキリスト教によって廃れた」説がほとんど(というかそれしかないかも)。日本の古代宗教(まぁ、一般的に西洋では異教と称される部類の宗教)ファンはどうもキリスト教を敵にみがち。現在活躍されているルーン文字学者の本ではこの考え方はまずないです。というのは、それをいっちゃ矛盾が生じてしまうからです。アングロサクソンルーン文字の残された碑文、スカンジナビアルーン文字の残された碑文は記念碑で、これらはキリスト教文化の影響であり、後期(末期)ゲルマンルーン文字の残された碑文にもキリスト教の影響がある。イギリス、大陸に残されたルーン文字の書かれた写本はこれらの者達の手で残されている。より実用的な意味合い、日常、政治、外交的な理由からルーン文字は廃れるようになったとみなす方がより自然です。後世にこれほどまでに多くのルーン文字の遺物が残されたのはキリスト教のお陰といっても過言でない。もしルーン文字が一部の魔法使いだけに使用された魔法文字であったのであれば、師匠から弟子にのみ伝えられ、使用されたものは奥義を伏すために破壊され、ローマ人やギリシャ人らがゲルマン民族の地域をうろちょーろする商人や傭兵らから聞いた話として、文献に「こんな文字、蛮族つこてたでー」な一文で終わっていたかもしれない。
ルーン文字は古代の言葉を留めている実用的な文字であり、歴史言語学にも重要な遺物である。決してキリスト教により駆逐された意味不明な魔法文字ではない。
*1
Wulfila = Ulfilas。311?〜383年。ゴート族のキリスト教司祭、司教。
ウルフィラスはギリシャ語聖書をゴート語に聖書を翻訳したと言われ、27文字からなるゴート文字を作り出した。うち20文字はギリシャ文字から、5文字がローマ文字、2文字はルーン文字から取り入れて作り出した。このゴート語の聖書の断片、一般的にシルバーバイブルと呼ばれるものはウプサラ大の図書館で無料で展示室で誰でも見れます。
初期英語やそれに関連する言語では「秘密、神秘」を意味した。現代ドイツ語の raunen ([Runeと同系]《雅》ささやく、ひそひそと話す)は現代に神秘や秘密のその雰囲気を現代に残している。また rown や round は囁くという意味の「耳へ」で、これは17世紀まで普通に用いられた英語で作品で見受けられる単語であった。
そしてゲルマン語からケルト語に借入され、古アイルランド語やスコティッシュ・ゲール語では同じく「秘密」として伝わるのである。またフィンランド語には runo 「歌」として取り入れられたのである。しかし現代英語の rune はここから由来するのではなく、17世紀のラテン語の runa から由来し、同じく runic は runicus から由来するのである。
さてルーン文字のふるさとであるスカンジナビアではどうなのか。350年〜400年頃のノルウェイの石碑の碑文にその語は登場する。
... dagastizrunofaihido (碑文は右から左の方向に書かれている)
... dagastiz runo faihido.
(我)、... ダガスティズ、このルーン(碑文)を塗った。
(ノルウェイ、オップランド、Einang石碑)
まさしくここでは本来の姿、ルーン文字として登場するのである。しかしここでふと気付かれるかもしれません。ではこの碑文における初めてのルーンという単語はどこから由来するのか?それがよくわからない。まさに謎、秘密なのである。
Elof Hellquist は「音を作る」を意味する ru を語根として発生したものとし、ルーン文字は「音を作る」記号であると推測した。そして「秘密」の意味は副であろうとしている。
カタカナは漢字を簡素化したもので、その由来はたどれるのであるが、大抵の古い文字というものはその起源、発祥がわからないのである。こういった様々な文字の由来を尋ねる学問がある。それが文字の学問、文字学である。ルーン文字学者は文字の学問の専門家でないためか、やや文字としての成り立ちや由来についての説明が弱いように思われるのだが、様々な方面からその試みが行われている。
現在までに知られている最古の碑文は西暦2世紀後半のものとされ、それが成熟した使用のされ方をしているためルーン文字の起源はそれよりも1世紀さかのぼり、おおよそ初世紀頃に発祥したものであろうとされている。サイトなどで検索をかけると「ルーン文字の起源は3世紀」説をぽつぽつ見ます。現在最古のものの一つとされている Øvre Stabu の槍の穂(ノルウェイ・オップランド)は学者によって時代付けは若干ぶれがあるのですが、西暦150〜200年(175〜400年にあてる説もある)とされており、軽くその説を超えるのである。これ以外にも200年ごろの刻文はいくつか存在するのである。
起源3世紀説は恐らく以下であろう。Ludvig Wimmer の1874年の Runeskriftens oprindelse og udvikling i Norden にライン河沿岸に住むローマ人の事例を参考にしてルーン文字が出来上がったと書かれている。これに先行するものとして1822年からの Jakob Bredsdorff の Om Runeskriftens Oprindelse と1864年からの Adolf Kirchhoff の Das gotische runenalphabet がある。Wimmer の時代には4世紀以前のルーン碑文は発見されていなかった。そしてその碑文が決まり文句だったのでこれより100年はその起源が遡れるとし、起源は3世紀初期で、2世紀末期より以前ではないとした。つまり19世紀の説である・・・。あー、そこの3世紀説を書かれいるサイトさん・・・情報が古すぎます・・・今や時代は梨すら超えております。今日でも毎年、各国で新しいルーン碑文が発見されております。
さて、ルーン文字がおおよそ初世紀ごろに発祥したとすれば、それはどの文字から分派したのかが問題になる。ルーン文字は特定の者によって作り上げられた、突然に出来上がった文字ではないというのがより一般的な見解である。それ以前にあった何かを参考に、もしくは刺激を受け仕上げられたものであるというのである。
文字が同属に入るかどうかを決定する手段は、形の類似性、音の類似性が重要視される。〜ルーン文字と命名された文字がいくつかある。私自身が早引きに使っている辞書の一つ「世界の文字の図典・世界の文字研究会編・吉川弘文館」を参考に列挙すると、まずは古代ヨーロッパのルーネ文字(これはおそらくドイツの本からの言及だと思います。ドイツ系の研究者はルーン文字とは言わず、ルーネ文字と言います)があげられ、ハンガリー=ルーネ(古代ハンガリー文字)、トルコ=ルーネ(突厥文字)があげられている。 German rune をドイツ=ルーネと訳している処がいただけない、Franks Casket を「フランクの小箱」と訳しているのがいただけない(Sir Augustus Wollaston Franks 寄贈の小箱のためフランクスの小箱になる。ものによってはもっと誤解したフランク族の棺と訳しているものもある)、概論としてあまりにもまとめすぎてはいるのですが、おおむねいいものだとは思います。
著作権の都合上、そのページをお見せできないので図書館ででも利用してもらえばわかると思いますが、ハンガリー、トルコのそれは形状が非常に似ている。どちらもルーン文字よりも発祥は新しく、単純にルーン文字に形状が似ていたからこう命名された。これらが決定的にルーン文字とは異なると判るところは音価である。音価が決定的に異なるのである。
突厥文字、いわゆるトルキッシュルーンについて公開されている日本唯一(多分)があります。お仲間サイトで突厥に非常に詳しいので是非御覧下さい。どれ程、形状が似ているかお分かりいただけると思います。
突厥文字翻字表
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/tonyukuk/alfabe.htm
雪豹さんのサイト
突厥が好きっっっ!
http://homepage2.nifty.com/i-love-turk/
から。
文字の学問においてその形状はその使用状況に結び付けられることがある。たとえば楔形文字はニードルのようなもので粘土に彫り込むのに適した文字の形状であったというような事である。用いられる道具、文字が書かれるものの素材によってある程度の形状がわかるというものである。ルーン文字もこのように理解され、その角ばった形状、水平線の欠乏は木切れにナイフで用いられた文字だからだというものである。水平線は木目に混ざってわかりにくいため避けられたというのである。
一般的に次のように言われている。ルーン文字の角張った文字はナイフで木片に刻むことを最初の目的としたためで、木片というものはどこにでも落ちており、ナイフはいつでも腰にぶら下がっており、思いついた時に刻むことができた。そして刻み損ねたとしても間違い部分をこそげ落して正しい文字を刻む事ができ、役目を終えたルーン木片はマキとなり火にくべられたため後世に伝わっていないのである。現在発見されている碑文は、ブラクテアート(bracteate : 模様が浮き出た(打ち出し、キャストなど)コイン、メダル)も含めて約450個(ブラクテアートは約200個(Ikonographischer Katalogでは105個の型、182個のルーン碑文のある個体)が共通ゲルマンルーン文字の碑文のある品物と認められる。そのほとんどが金属、石などの朽ちないものに刻まれたものである。
普段に用いられた手段である木片にナイフで刻まれた碑文はこれらの形状の特質を証明するものであるのだが、それらは朽ちる性質のため後世にほとんど伝わっていないというのがその主張であろう。しかしゲルマンは元々「口伝え」の民族で「記録して残す」文化ではないということである。なぜ気軽に落ちている素材で常に腰にぶら下がっているナイフで文字を刻む必要があるのか?と疑問が湧いてはこないだろうか。
上記突厥文字も角ばっている。突厥、つまり馬主の国に木切れが頻繁に落ちているだろうか?現在残されているものは石に刻まれた文字である。突厥文字には確かに丸みを帯びた記号もある。しかしルーン文字のバリエーションには曲線で彫られたものもあり、水平のものもある。
果たして木片とナイフの特性がルーン文字の形状を決定付けたのか?と、いささか疑問が湧き上がってくるのである。単にルーン文字を創り出すにあたって参考にした、もしくは取り入れた先の文字が角ばっていたから、もしくはルーン文字を創り出し、使い出した者達が角ばったものを創り出す、もしくは使うセンスを持ちえていたという解釈もできるのではないか。
まぁ、まぁ、素人がなにをいっとんねんですが・・・。
R.I.PAGEは著書の中でルーン文字の起源を避けて通るのがまるで幸運かのように書いてある。確かに由来をたどるのは困難な作業であると思われる。ルーン文字の起源については3つの考慮に値する説がある。ラテン文字説、ギリシャ文字説、北イタリア説である。
権威ある学者の L. F. A. Wimmer によって提唱された。この説はいくつかの文字の形状の類似性に基づいている。ラテン文字の大文字のF、R、H、S、Cからルーン文字、、、、が由来するというものである。そして残りのものが残りのラテン文字の大文字から由来するというものである。この説ではルーン文字は徐々に発達したものではなく、4世紀の西ゴートでゴート・アルファベットを創り出した既述のウルフィラスのようなある者によって作られたというのである。この説での発祥の時期は初世紀頃である。後の時代の E. Moltke も彼の説を後押ししている。Moltke はルーン文字のフサルクの並びは重要でないと退け、ラテン文字に属するものとした。ラテン文字は左から右に書かれるのだが、ルーン文字は右から左、左から右、時には犂耕体という交互の方向に書かれる文体であるのだが、これも重要でないと退けている。だがルーン文字はラテン文字の大文字の徹底的な模倣ではなく、参考にされたものであり、ラテン文字から由来しない7つの文字はスカンジナビア由来のものであろうとしている。そしてデンマークがその祖であるとしている。
記述の説とは同調しない説が S. Agrell によって提唱された。これはポンペイの碑文や南西ドイツのローマ領の辺境地帯で発見された改変されたラテン文字の走体(cursive writing)に由来するものであるというものである。そして西暦63〜142年の間にここから案出された文字はスカンジナビアに向かって北上したという説である。しかしこの説は例外的なローマ文字の形状に重点を置き、かなり無理があるものであった。
ちなみにラテン文字は一般的にエトルリア文字を仲介として、間接的にギリシャ文字を受け入れたものであると言われている。そしてこのラテン文字はローマの政治的、外交的な活動と同じくして、エトルリア文字を征服していくのである。おおよそ現在見慣れた文字が確立するのは初期ラテン文字の時代の紀元前3世紀頃以降と思われる。
スウェーデンの学者である Otto von Friesen によって提唱された説は、ルーン文字の起源はゴート族が関わっているものとし、ギリシャ文字(大文字、草書体の両者共)から多くが由来し、またいくつかのルーンはラテン文字に倣っているというものである。ギリシャ文字とラテン文字のゴート族の傭兵が創り出したというものであり、発祥の地域と時期は3世紀頃の黒海あたりであろうとしている。そしてここからスカンジナビアへ伝わってとしている。この説もまたルーン文字は徐々に発達したものではなく、特定の者による案出であろうとしている。
C. J. S. Marstrander と M. Hammarström によって提唱されたもので、多くのルーン文字学者によって指示されている説である。(Eliottの本文中)
北イタリアの文字はラテン文字によっておおよそ初世紀頃に駆逐されたと思われる。そしてその時期頃にそれらを祖としてルーン文字が出来上がったというものである。ルーン文字の四分の三が実に北イタリア文字と形状において類似しているのである。特定のゲルマン部族がこの時代にこの地域に接触することはあったに違いなく、ここでの知識が3世紀が始まる頃までにスカンジナビアにもたらされたのであろうとするものである。
この説は他説よりも時代、形状、音価において問題が上がってこないのである。(あくまでも Elliottの本文中)
RUNES AN INTRODUCTION R.W.V.ELLIOTT
P8 TABLE 1 Runes and North Italic letters
以前、日本の北欧文学研究をされている先生の講義を聴いたり、掲示板で意見を見たりしたことがありました。両先生方はラテン文字説を押しておりました。日本の北欧研究においてはラテン文字説が有力のようです。現在の北欧では恐らくほぼラテン説であろうと思います。Wimmer も Moltke も北イタリア文字は熟知し、類似性を知っていました。しかしそれらを利用しようとはしなかったようです。ちなみにMoltke はこの北イタリア文字説を「恥ずべき説」とこきおろしていたりします。
ここからはあくまでも素人の私見なので聞き流すのがよし。↓(2007.5.19修正と加筆)
と、言いながらもルーン文字、ギリシャ文字、ラテン文字、エトルリア文字、北イタリア文字は同属、同系統に属するのである。それらが似ているのは当然のことで、語源をたどる時と同じく、同属では由来がわかりにくいというのは当たり前の話だと思います。
古い碑文は断片的なものが多く、携帯できるものが多く、また形状のヴァリエーションも多い。時代、地域を断定しにくいので問題をさらにややこしくしています。美術史で時代がわかると思われるだろうが、腐敗しないものに後で記したという可能性を当然のようにいつも考慮しなくてはいけないし、語形で時代がわかると思われるだろうが、これがまた困ったことに書き言葉というものがあり、その当時はあきらかに話し言葉では使っていなかった古い言葉や言い回しが碑文に使われる可能性もあり、またブラクテアートを作る人のような金職人はルーンマスター(ルーン文字を読み書きできる人)ではなく、単純に職人であったため、丸々見本通りに作ったり、または写し損じ、はたまた写し損じの写しが多発し話をややこしくするのである。
しかしながら北イタリア説を支持するにしても、ルーン文字は北イタリアの文字の徹底的な模倣ではなく、北イタリア文字を多く参考にしながら、また、他の要素も参考にしながら、元々あった記号、聖なるシンボルである記号なども含めながらルーン文字を確立していったと思われる。元々、太陽信仰、回転の信仰を示す卍の記号など聖なるシンボル、記号を記す習慣はあったと思われる。回転のシンボル、太陽信仰のシンボル、保護のシンボルは相当に古くから(たとえば青銅器時代)あったと断言できるであろう。そしてこれはケルトの影響でもなく、ローマや地中海からの影響でもなくスカンジナビア独自のものと思われる。こういった推測もある。(Eliott)
参・鉄器時代とヴァイキング時代の石碑に記されたシンボルについて
こうは言っても最近は新しい論文も続々でてきており、メダル、ブラクテアートの研究、考古学の見地などからライン川付近でのローマとの密接な関係が重要視され、ラテン語説が唱えられているのも事実です。北イタリア説が影が最近薄いもしくは全く無視な気がするのですが、それは研究の流行などもあってなんとも言いがたいものがありますし、北イタリア説はルーン文字との形状の類似性ばかりに頼っているのでなかなか難しいものがありますし、もともと北イタリア文字自体の詳細が不明で世界に聞いても(ネットで探しても)ルーン文字の起源に触れた文章にぱらぱら出てくる程度で、確立された認識はないと思われます。本当にエトルリア文字からの子孫なのか、ローマ文字の亜種という可能性などの問題も棚上げ状態。その上に比較するには材料が少ない。音素を考えた場合、ギリシャ文字からの由来の方が無理がない部分があったりと非常に難しい問題だと思います。
ちなみにローマ文字説を指示しない人らがよく言う「フサルクとローマ文字の並び方の違い」は根拠にはなりません。というのはフサルクが発見されているのは、5世紀中葉以降のもので発祥当時からあったとは現状ではいえないからです。発祥当時に24文字あったとは全くもって立証できないのです。つまり現状では「初世紀に24文字のルーン文字があった」というのは幻想に過ぎないのである。より正確には「およそ2世紀頃の遺物に後の時代の発見物で24個のルーン文字のいくつかの文字が発見されている」である。ということでルーン文字学者がいつも頭にかかえるいくつかのルーン文字のi/eルーン、ngルーンなどは発祥当時現状の遺物にはない。ということで棚上げして説を書けば問題なくいくのにいつも苦労されております。学者先生が「これはおいておいて」という書き方はできんからでしょうね・・・きっと。Looijenga先生は時系列に書いているのでそのあたりは非常にスマートです。
ローマ文字の場合の接触場所 → ライン河
ギリシャ文字の場合の接触場所 → 黒海
北イタリア文字の場合の接触場所 → 北アルプス
無理からに3つの説の流れを色づけで作りました。 |
参考・世界の文字の図典(吉川弘文館)、文字の考古学I(同成社) |
下はヨーロッパの多くの文字の祖先のエトルリア文字。儀式用の壷。紀元前7世紀。
うーん、後のスカンジナビアのルーン石碑にさも似たり・・・。
ルーン文字は神々が作り出したのである
あー、もう、そこ、ウィンドウを閉じない。
古エッダのオーディンの箴言(10世紀)の80節にはその由来が、138節〜139節では習得方法がこう語られている。同じく142節でも語られている。
オーディンの箴言 Hávamál |
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80節 | |
お前がルーネのことをたずねたとき、いと高い神々がつくられ、大賢人(オーディン)が描かれた、神々に由来するもののことがわかった。黙っていれば一番よかったのに。 | Þat er þá reynt, er þú at rúnom
spyrr, inom reginkunnom, þeim er gorðo giregin oc fáði fimbulþulr, þá hefir hann bazt, ef hann þegir. |
138節 | |
わしは、風の吹きさらす樹に、九夜の間、槍に傷つき、オーディン、つまり、わし地震にわが身を犠牲に捧げて、たれもどんな根から生えているか知らぬ樹に吊り下がったことを覚えている。 | Veit ec, at ec hecc vindgameiði á nætr allar nío, geiri undaðr oc gefinn Óðni, siálfr siálfom mér, á þeim meiði, er mangi veit, hvers hann af rótom renn. |
139節 | |
わしはパンも角杯も恵んでもらえず、下をうかがった。わしはルーネ文字を読みとり、呻きながら読みとり、それから下へ落ちた。 | Við hleifi mic sældo né við hornigi, nýsta ec niðr; nam ec upp rúnar, œpandi nam, fell ec aptr þaðan. |
142節 | |
ルーネをお前は見出すだろう。知恵者が描き、偉大な神神が作り、神々のフロプトが彫った占いの棒、すこぶる大きな、すこぶる硬い棒を。 | Rúnar munt þú finna oc ráðna stafi, miøc stóra stafi, miøc stinna stafi, er fáði fimbulþulr oc gorðo ginregin oc reist hroptr røgna, |
【エッダ・古代北欧歌謡集】 編者 V. G. ネッケル、H. クーン A. ホルツマルク、 J. ヘルガソン 訳者 谷口 幸男 新潮社 |
ということでルーン文字は北欧神話の神(々)から由来するのである。
まぁまぁ、話はまだあるので聞いて下さい・・・。
Noleby石碑。スウェーデン、ヴェステルヨータランド。7世紀。
碑 文 | 1)runofahiraginakudotojeka 2)unaþou : suhurah : susiehhwatin 3)hakuþo |
テキスト | runo fahi raginakudo tojeka unaþou suhurah susieh hwatin hakuþo |
我はととのえる適切な神性な(神から由来する)ルーン文字を・・・ハクスズのために(背の曲がったものなど) |
ここで注目して頂きたい単語がある。 raginakudo という語である。上記オーディンの箴言の80節ででも登場している語である。ここで鋭い方はお気づきだろうと思うのだが、北欧神話に出てくる神々の終焉、ラグナレクという語のラグナと同じ語なのである。
古アイスランド語の「神々」を意味する regin の属格の ragna と kunna の合成語である。 reginkunnr *1は神から由来するを意味する形容詞である。
先行する runo という語と頭韻を踏み、詩的な表現であるが興味深い碑文であることには違いない。また9世紀の同じくスウェーデンのヴェステルヨータランドの Sparlösa石碑にも runaR þaR rœginkundu と同じ語が存在する。
何が興味深いかというと、エッダ詩が成立したであろう時代よりも古くからルーン文字が「神々から由来した」という信仰があったことを示唆するものと推測ができるからである。この信仰が数百年あったと推測できるのである。
しかしながら頭韻している部分を考慮すると、頭韻のためにこの語が選ばれた可能性も捨てきれないのではあるが、この語呂の良さが親しまれ、長く人から人へと口承で伝えられることの手助けになったには違いないとは思われる。
と、さも私が気付いたかのように手柄独り占めで書いていますが、実はぼけっと碑文を紹介していた処にウチの掲示板でそれはオーディンの箴言だよと指南された方がいたりして・・・ ⇒ jinnさん jinn's mediaevalia 。どうも有難うございました。ころっと忘れていました・・・。
(04/09/23)
*1
ちょっとやや脱線になるかも知れませんが、エッダやサガファン向けに補足しておきます。jinnさんin
jinn's mediaevalia のご協力でさらに突っ込んだことを調べることができました。どうもありがとうございました(毎度ですが・・・)。
reginkunnr はハムジルの詩にも残されており、-kunnr の語についてはいくつかの考え方があるようです。
ハムジルの詩 Hamðismál |
|
25 節 | |
甲冑に身を固めた恐るべき神々の末裔(イェルムンレク)は熊のように吼えた。 「槍も剣も刃が立たぬから、ヨーナクの息子は石を投げて殺せ。」 |
Þá hraut við inn reginkunngi, baldr í brynio, sem birn hryti: 'Grýtið ér á gumna, allz geirar né bíta, eggiar né iárn, Iónacrs sono.' |
【エッダ・古代北欧歌謡集】 編者 V. G. ネッケル、H. クーン A. ホルツマルク、 J. ヘルガソン 訳者 谷口 幸男 新潮社 |
de Vriesの語源辞典には「〜由来する」の解釈があり、英語の kin と同源の理解を示しているとのことです。恐らくこれと同調するのが上記の画像部分の語彙集にある、子孫、家系、になると思います。この
-kunnr はなかなかやっかいな単語のようでいくつか解釈できるようです。
以下、引用・・・(す、すみません・・・ jinn さん・・・)
「kunnrは、動詞*kunta-から派生した形容詞形(過去分詞)と見なされているようです。
一方で、regin-kunnigrですが、「ハムジルの言葉」に出てきますね(25節)。ドロンケ博士は、このkunnigrは、「洞察力、ものを知る力」という解釈も可能であるとしています。つまり、この詩を書いた(歌った)詩人は二つの意味をかけてこの言葉を使っているというのですね。そして、Havamalに見られる場所も両方の解釈が可能だと論じています。
つまり「神々から下ったもの」という意味と「力強きものを知る力」という意味の両方の意味が合わさっているというのです。」
知識のありか↓
jinn's mediaevalia (jinnの中世幻想迷宮)
http://www.asahi-net.or.jp/~aw2t-itu/
自分なりに文章を書こうとは努力しましたが・・・、力及ばず、不可能だったもので引用させていただきました。重ねて御礼申し上げます。
(04/10/01)