(古代の馬術については諸説あり、定説というものが確立されていないようなので、私が読んだ本の最大公約数を取っております。その点をご注意下さい)
かつて専門家はウマは<冷血の>森林ウマと中東の<熱血の>野生ウマ現代の家畜のウマの祖先と考えていたようである。森林ウマは最後の氷河期に絶滅したと思われている。しかしこれらの古い呼称は残り、<冷血種>は中世のヨーロッパ軍馬(これ自身はローマ時代のウマに由来する)を指し、大型で気性の穏やかなウマを指すのに用いられ、<熱血種>あるいは<温血種>のウマは活気があり、神経質な中東系の子孫を指す。ウマの家畜化は5000年以上前に各地で同時に起こり、まずは馬車として使われ、次ぎに騎馬として使われたとされている。
ウマを操作するに必要な基本的道具はハミでありおよそ5000年前に作られたと思われ、数千年形状がほとんど変わっていないのである。まず有機性のハミが用いられたが噛み砕かれて長持ちしなくなったので、やがて金属製のハミが生まれる。やがてギリシャを介してヨーロッパに伝わったと思われ、まずエトルリア文明がウマを戦いや輸送手段、競馬などに利用していた。そのエトルリア人は青銅製のハミを用いていた。ローマはギリシャやエトルリアから馬車や戦車、乗馬の影響は受けていたものの、初期の主力は歩兵で、騎兵を重要視するのはずっと後になる。従ってハミを発達させたのはケルト人だったとされている。そして北欧でも紀元前1000年の青銅器時代にすでに鉄製品があり、青銅器時代末期には鉄製のハミがあった(H. Shetelig 1937: 174)。ハミはもちろん手綱を含む頭絡で固定されるものであるため、手綱も古くからあることになる。
鐙は西暦700年まで西欧では言及がされていない。中国では槍や剣よりも弓矢に頼っていたのでしっかしとした鞍と鐙が必要であったと言われており、4世紀の副葬品で発見されている。しかしながらアッシリアでは紀元前7世紀のレリーフに駈けている馬上から弓を引く鐙なしの騎手の姿が描かれている。最近では、鐙は体を支えるものではなく、馬によじ登るために考案されたと思われ、片側だけにつけられた鐙は4世紀の中国の文献に残されている。熟練者では鐙なしで襲歩(ギャロップ)もできる。初心者クラスでも軽い駈歩(キャンター)であれば鐙なしで騎乗できる。ちなみにキャンターの語源はカンタベリーで、カンタベリー詣での者はうきうきで、馬の足も軽やかであったからであるという。
蹄鉄については諸説あるようで、ケルト装蹄始源説とフン族装蹄始源説、ギリシャやローマのヒポサンダールという馬の履物から由来する等諸説ある(日本のネット情報)。フン族装蹄始源説については外国のサイトでは言及がない上、草原に住み、遊牧民である彼らに蹄鉄が必要なのかどうか疑問がある上、現在の装蹄師にあたる鍛冶屋を常に連れて行く必要がある。砂場の馬場を走るウマでも1ヶ月半〜2ヶ月に一度は蹄鉄を取り替えている。やはりこれは蹄鉄の必要性にその理由があると思う。蹄鉄の役割は馬の蹄の保護、運動能力の向上が挙げられる。馬の蹄を保護する必要のある道、それはつまり舗装道路である。つまりローマの石畳の道にその発祥がある(A. Azzaroli 1985:116)。
サイトで調べていたら、ケルト人が蹄釘を用いた蹄鉄を作り、それがゲルマン人を介しローマに伝わったという話があるようです。そして湿地での機動力が上がったことが書かれていた。南フランスのヨーロッパ最大の湿地帯のカマルグには白い野生馬がいる。現在これらは全て所有者がいるのだが、かつて野生馬に戻す実験が行われたという。つまり蹄鉄なしで湿地を駆け回っていたのである。
確かに水にしょっちゅう当たっている蹄は弱いのですが、痛みすぎて蹄鉄も打てないような事になったりします。だから上の「湿地での機動力があがった」というのが逆説にも聞こえてしまうのであるが、重い物を乗せた時、それに耐えかねて蹄が裂けるのを避けるために蹄鉄を打つという可能性あります。蹄の中には神経も骨もあるので、裂けたらと考えると・・・。
また、「乗馬ライフ」2005年8月号にも蹄鉄の話が書かている(P58-65。特集内容は裸足健康法というもので、ヨーロッパでの蹄鉄をはずしてウマの健康を図ろうという試み)。
「ローマ時代の彫刻を見ても、蹄鉄の詳細は見当たらない。あれほどローマの芸術家達は細部を彫っていたのにもかかわらずだ。蹄鉄が本格的にヨーロッパに広まったのは十字軍の遠征以降(1096-1270)。ヨーロッパの泥地地帯で育った大型のウマが多く使われ、その平坦で柔らかい蹄を保護するために蹄鉄が必要となった。」(抜粋・同P59)
裂けてウマの蹄が損傷するのを防ぐために蹄鉄が打たれた可能性はあると思います。ヨーロッパでは草原で好まれたような機動力の高いウマではなく、重種が好まれたのは甲冑を着込んだ重たい騎士に耐えられるようにという話があるため。
主にブリトンでローマ時代から蹄鉄は言及されている。西欧に広がるのは鐙と同様にずっと後になって中世まで普及しない。しかし鉄製品は再生される場合があるので単に発見されていないだけかもしれない。ローマ人は考古学者に"ヒポサンダール"と呼ばれる"soleaferrea"だけを用いていた。これは紐で縛るもので、移動時にいちいち着用しなければならない手間のかかるものである上、外れる可能性のあるものである。 蹄釘穴のある蹄鉄はラ・テーヌ文化のケルト人によって考案されたのだが、初期段階のものは発見されていない。十数個の蹄鉄がザルツブルグに近いオーストリア、ドイツの異なった場所で発見されており、ベルン近郊のケルト人の地でもわずかに発見されている。他にもオーストリアのGross Glocknerの公道付近で発見されており、これはローマ時代のものであろう。イギリスはたくさん出土している。それらの内の3つはローマ帝国による占領の時代のものであるが、ほとんどが時代が不明である(A. Azzaroli 1985:116)。考古学的証拠ではケルト人の方が古いのである
残念ながらヒポサンダールの復元図をサイト(海外を含めて)や本で探したんですが、発見できない日々が続きました。そしてJRAの関連の馬の博物館に昨年行ってきました。実際の発見されたヒポサンダールがあるだけでなく、復元図もありました。残念ながらカメラもなく、メモも持っていっていなかったばかちんの私は正確に記録することができませんでした。
根岸 馬の博物館
http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/U/U01.html
さすがはJRA。\100という安い入場料ながら、歴史的遺物はホンモノがたくさんある。「馬のシルクロード 馬と馬文化・遥かなる道」という特別展に行って来たんですが、もう一度やってくれんかなぁ、と思うぐらい素晴しいものでした。(特別展でも\200でした。で、ガラガラ・・・あんなに素晴しいのに)
蹄鉄にはこんなエピソードがあるというのである。
ギリシャ:古代ギリシャ時代、王侯貴族は、自分のウマに金や銀でできた金属性の靴を取りつけて街中をパレードし、これが蹄から脱落したときは、拾った者の所有になったことから、ウマの靴を拾うと裕福になるという伝承が生まれた。
伝承の背景::当時は、釘で蹄鉄を打ち付ける現在の蹄鉄とは違って、サンダル型の靴をヒモで蹄に縛り付けるという稚拙な方法で対処していたことから、それが脱落する可能性が高かったこと、王侯貴族は脱落する靴を拾うことを目当てに自分のウマの後をぞろぞろと付いてくる人々を増やし、自分の威厳をアピールするための道具に利用したことなどが、このような慣習を産み、福を呼ぶ蹄鉄の伝承となっていったのであろう。
【抜粋・日本ウマ学会のサイト 青木修】
http://www.equinst.go.jp/JSES/can/teitetsu.html
また、「文明開化うま物語」には以下のように書かれている。
ローマの皇帝ネロ(37-68)といえば暴君で有名だが、そのネロが旅行用として使用した馬車を引くロバには、すべて銀の蹄鉄をつけさせたという。ネロの時代のローマでは、ヒポサンダールと言って、サンダルのような館属性の板を蹄にくくりつける形の蹄鉄が使われていた。そればかりではない。ネロはその王妃ポペアのロバには、黄金製の蹄鉄をはかせていた。こうした金属製の蹄鉄を使ったのは、なにもネロだけではない。十一世紀ごろのイタリアの富豪、タスカーニのボニフェース侯爵は、その恋人のベアトリック嬢に会いに行くとき、ウマに銀の蹄鉄をはかせた。ところが、わざと途中で落ちるようにゆるく付けておいて、落ちた銀の蹄鉄は拾った者に与えた。そのため、侯爵が外出するときは、蹄鉄を拾おうとする群衆で大変だったという。
【文明開化とうま物語・早坂昇治著・有隣新書P34から抜粋】
早坂氏はアナウンサーで中央競馬の実況を担当していたので競馬史の本をたくさんかかれているのですが、いかんせんソースが書かれていない。この真偽を確かめるために非常に苦労をしました。なんせ歴史(文献学かな・・・)を語るには「どの文献に書かれていたか」ということが重要になるため、ソースたどりにかなり苦労をしました。ローマの皇帝の話は容易くソースが判りました。というのは書店には売っていない馬事文化財団が発行する「馬と人間の歴史」のP113に書いてあったからである。
「ローマ皇帝伝(下)・岩波文庫・スエトニウス著」のP165に書かれている。
ネロはどんな衣装も二度と着なかった。賽子遊びでは、一つ目に四十万セステルティウスも賭けた。魚釣りには紫染めと紅染めの組み糸で編んだ金の網を使った。伝えるところによると、ネロが旅をするときは、きまって旅行四輪車の数が千輌を越え、彼のらばは銀の蹄鉄をうち、らば曳きはカヌシウム製毛織物を着て、マザケス族と急使の一行は、腕飾りや胸飾りをつけていたという。
そして彼の妻のポッパエアについてのエピソードはプリニウスの博物誌にある。「古代へのいざない プリニウスの博物誌・雄山閣」のP171に書かれている。金と銀について書かれている章にある。
そしてネロ帝の妻ポッパエアが自分のお気に入りのラバに金のくつをはかせようというようなことをまで思いついたのは、われわれの時代に起こったことなのだ。
面白いことに両方のエピソードとも、ラバ、ロバで、ウマでないのである・・・。ロバやラバには蹄鉄がいらないのでは・・・。そしてウマの蹄鉄のエピソードとして語り継がれているのである・・・。
そして私にとっての大問題であったのが、「タスカーニのボニフェース侯爵」。なんとかイタリアに詳しい方からの情報で、「カノッサの屈辱」のマチルダの父のボニファーチョというところまでは判りました。しかしそこからまた進まない。そこを救ってくださったのはR大のイタリア関連のT教授。「いやー、本当にわからなくて困っているんですよねー」と酒の席で言った私の一言に即調べして下さって、即解決。有難うございました。タスカーニもボニフェースも英語だったので、イタリア語からカタカナ表記を起こしている日本ではどう調べてもヒットしなかったのでした。タスカーニはいわずと知れたトスカーナの事である。英語である証拠→http://en.wikipedia.org/wiki/Boniface_III_of_Tuscany
Donizone著 "Vita Mathildis"(Vita di Matilde)に書かれたエピソードで、マティルデに仕えた聖職者ドニツォーネ(ドニゾーネ?)の書いた伝記ということでした。カノッサ市のホームページに紹介されており、「ボニファーチョはロレーヌのベアトリーチェに求婚しに行くとき、馬の蹄鉄に銀をかぶせたが、釘を打たなかった。そのため、馬が走ると銀がはがれ落ち、人々はそれを拾い集め、ボニファーチョの豊かさを知った」。というエピソードと、「マティルデは馬で外出するとき、いつも金の拍車をつけた。それは教会建設への寄付を求められたときに寄進するためだった。」というエピソードが書かれているということでした。
(このエピソードについてはできるだけ早く原典(カノッサのマチルダ伝)の文献を見て引用したいと思います。が、どうも書物、サイトで英訳はなく、日本で作られたものはあるもののファクシミリ版で大学所蔵のモノであるため私が拝める日が来るのかどうか・・・)http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA0065949X
これです。どなたか大学生で調べられる方(かつ、ラテン語から和訳起こせる方)、お友達になってください。
やっとここで北欧の登場。ウマに金、銀の沓をはかせるというエピソードがあるのは地中海に限らない。サガでも登場するのである。
さてこんなエピソードを古代北欧人が知っていたのか、本当にあった話なのかは判らないがアイスランドのノルウェイ王朝列伝としては一番古い13世紀のモルキンスキンナという本にこんなエピソードがある。マグヌース裸足王の息子のシグルズはコンスタンチノープルに向かった。入城の前に王は臣下に「びびんじゃねぇぞ、イナカもんとおもわれちゃいかんからキョロキョロすんな!」と注意をした。その時、自分の馬に黄金の蹄鉄をつけ、さらに落ちやすくした。凱旋門の黄金門を通り、大通りを行く時、もくろみ通り、王の黄金の蹄鉄が一つ落ちた。しかし誰一人眼もくれることもなく、黄金には全く困っていないかのようなフリをしてビザンツにかましを入れたのである。このシーンはヘイムスクリングラ、ファグルスキンナには描写されていない。なかなかヴァイキングの末裔らしい豪快な話である。しかしビザンツ側の本【ビザンツ幻影の世界帝国 講談社選書メチエ 根津由喜夫 1999: 67-71】では12世紀にはビザンツ皇帝ですら通れなかった凱旋門にイナカモンの王の軍団が通れるハズがない。まあ、そんなことにはいちいちつっこまないけどね、っと。確かにその通りである。でもエピソードとしてはなかなかいいものだと思います。
馬は、その形、その速さにおいて著しからず。しかもそれらは、われわれにおけるように、方向を様々に転じつつ旋回することを教えられず、ただ彼らは馬を真直ぐに、あるいはただ一方へのみ方向をまげて右へ右へと導き、ついに輪を結んで、そのいずれも他のものの後となることのないように走らせる。
【抜粋:岩波文庫 ゲルマーニア 泉井久之助】
ガリー人が最も喜び莫大な代価をおしまない駄馬についても、ゲルマーニー人は輸入したものを使おうとしない。自分のところで生まれたものは貧弱で不恰好であるが、日常の訓練で重労働に耐えられるようにする。騎兵戦でもしばしば馬からとび下りて徒歩で戦い、馬もじっとしているようにならしてあり、必要となれば直ぐ馬のところへもどる。その風習では鞍を使うことほどはずかしい卑怯な話はない。それ故、鞍をつけたものであればどんな騎兵の群にも少数で向かって行く。
【抜粋:岩波文庫 ガリア戦記 近山金次 122】
正直、ローマ人の既述からはゲルマン人が乗馬がうまかったとは思えないのである。
ハラルド苛烈王である。なんとこの王は最終戦の非常に大切な戦の、かの有名な1066 年スタンフォードブリッジの戦の直前に多くの臣下の前でぼてっと落馬したのである。そもそもヴァイキングというのは馬に執着を持っていないようである。サガで戦にお気に入りの馬を連れて行った描写は私は見たことがない。どうも現地調達のようである。どんな調教を受けているかわからない馬にまたがるのである。ヴァイキングの馬術についてもサガではたいした描写は見たことがないし、これ程までに描写がないとどうも馬術については無頓着だったのではなかろうかとの疑念も湧いてくる。さらにサガやエッダでは馬の名前が少なく、馬にもたいした執着がなかったのかと思わされる。なんせハラルド苛烈王は着用のブリニャ(鎖帷子)にはエンマという名前を付けているのである。でも馬の姿かたちの描写はあれど名前がない。ウマというものに執着がなかったのかと思ってしまうのである。
上記5点はスウェーデンのゴットランドとウプランドで発見されている絵画石碑とルーン石碑に描かれている騎士の描写である。多分、乗馬やっている人に見せて、「この人どう思う?」と訊ねると、まず基本がなっていないと言うと思うし、こんな姿勢で乗れるなぁと言うと思います。ヴァイキングの本によくある「ヴァイキングは乗馬が上手かった」は何を根拠に言っているのか、かなりギモンである。
ちなみに下記2点はかの有名なバイユータペストリーに描かれているノルマン人の騎乗姿。
多分、乗馬やっている人にどっちが上手い?と訊ねると下記と答えると思います。
今まででもいい加減情報炸裂なんですが、ここは本当にソース何?の状態なので流してください。
乗馬ライフ2007年10月号の特集、「Icelandic horses」P8-11によると、アイスランドホースは1100年に外国から馬が持ち込まれる事を法律で禁止したとある。この典拠を調べようと、Grágás を見てみましたが発見できませんでした。Jónsbókはこの本自体が手に入らなかったので確認取れず。どのような理由でアイスランドに馬が持ち込まれる事が誰によって禁止されたのか不明です("The New Encyclopedia of the Horse Dk Pub (T); Revised版 (2001/04)" のP196 では約900年前に東方からの血を混ぜたところ、アイスランドホースに甚大な被害がでたため、930年のアルシンギで(2001 - 930 = 1071 になって計算が合わないが・・・)外国からの馬の輸入を禁止したとある。)。また判ったら報告します。ちなみにGrágásには馬の所有に関する法律はいくつかかかれています。
ちなみにサイトで調べたら、文献に禁止されたと書かれているというのはサイトによくかかれているがそれは間違いで、そんな事実はないとの事・・・。
2007年5月頃の世界不思議発見で放送されたヴァイキングの回で、デンマークではヴァイキング時代に道の幅は槍の長さに法律で決められた。それは馬に乗って槍を持つ時、横にして持つからであるという話でした。デンマークでヴァイキング時代の法律って・・・何?これまた全く判らないのでソース探しの旅に出ます。